ネガティブの価値
うちの息子はよく癇癪を起こすのですが、そんな時に大切なのは、「それすごいわかる!」「お父さんも子供の頃はそうだったんだよ。」という事だと思うんです。
やはり自分の息子だけあって、僕の子供時代と重なる部分はたくさんあって、「僕の息子として生まれてこなかったら、息子くんももっと穏やかな性格だったのかもしれない。」と申し訳なく思う事があるのですが、反面、そこの部分をうまく利用して、息子に同調するんです。
で、落ち着いたら、「嫌な感情を持ってしまったことは仕方がない事だけれど、感情と行動を分けないとダメだよね。」と話すと、だいたいわかってくれます。今のところ。
あれ・・・、何の話だっけ。
そうそう、「ネガティブな事」をネガティブだからと切り捨てるのはもったいないという話です。
僕らは社会人として、仕事人として、クリエイターとして、フォトグラファー、写真家として、社会から必要とされて初めて生きていくことができると思うんです。社会に生かされているんですね。
じゃ、それってもう少し具体的に言うとどういうことかっていうと、社会は「ネガティブを解決してくれる人」を必要としている、と思うわけです。
病気や犯罪というネガティブ、寂しや悲しさというネガティブ、慢心や差別なんていうのもある。
頭に血が上った時、一旦自分の感情を「今僕はムカついているんだ。」「困っているんだ。」「イライラしているんだ。」と自分の感情を受け入れて認識することができれば、それは後にとても大切な生きていくヒントになるはず。
実際企業は、自社製品(サービス)に対するポジティブな意見よりも、それをブラッシュアップするするためにネガティブな意見を欲しがっているし、同様に競合他社製品に対してのネガティブな意見にも敏感だ。
もっとミクロな話をすると、「自分がやられて嫌なことは他人にはしない」とか、「あの時に言われた一言に救われた」みたいな事が、一人の人間としての価値を高めていくし、そういう人と仕事もしたいし、僕もそうなりたい。
商売の種にもなるし、人間的な成長にも役立つ「ネガティブ」を、そのままにしておくのは、これ以上ないネガティブな事だよね、という話でした。
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