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新倉俊一『評伝 西脇順三郎』より

詩を論ずるは神様を論ずるに等しく危険である。(略)人間の存在の現実それ自身はつまらない。この根本的な偉大なつまらなさを感ずることが詩的動機である。詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)をもって意識さす一つの方法である。俗にこれを芸術という。p133

現実の世界は脳髄にすぎない。この脳髄を破ることは超現実芸術の目的である。崇高なる芸術の形態はすべて超現実主義である。故に崇高なる詩も亦超現実詩である。詩は脳髄の中に一つの真空なる砂漠を構成してその中へ現実の経験に属するすべてのサンサシヨン、サンチマン、イデ等をたたき落とすことによりて脳髄を純粋にせしむるところの一つの方法である。ここに純粋詩がある。詩はまた脳髄を斯くの如く破壊する。破壊されたる脳髄は一つの破壊されたる香水タンクの如く非常に馥郁たるものである。ここに香水商館的名誉がある。我々はもはやホコリツポイ葡萄をそのまま動物の如く食はない、しかしそれをツブしてその汁をのむものである。故に詩の成立価値はシアンパン酒としての価値に他ならない。また詩は脳髄を燃焼せしむるものである。ここに花火として又は火力としての詩がある。吾々は現実の世界を燃料としてゐるのみであつて自然人の如く燃料それ自体を享楽するものではない。吾々はこの燃料たる現実の世界をもやしてその中から光明及熱のみを吸収せんとするものである。純粋にして温かき馥郁たる火夫よ!p141

西脇の方法は無意識を尊重するブルトン式の自動記述とは違って、古典文学の作品をパロディ化して、そこから理知の笑いをうみだすサチュラ(諷刺)の文学である。これはエリオットや、ジョイスやパウンドなどもさかんに使った現代文学の手法であって、日本の自然主義的な文学の方法とも、抒情詩的方法ともちがう、まったく新しいスタイルの誕生であった。p163

自分を分解してみると、自分の中には、理知の世界、情念の世界、感覚の世界、肉体の世界がある。これ等は大体理知の世界と自然の世界に分けられる。次に自分の中に種々の人間がひそんでいる。先づ近代人と原始人がゐる。前者は近代の科学哲学宗教文芸によつて表現されてゐる。また後者は原始文化研究、原始人の心理研究、民俗学等に表現されてゐる。ところが自分の中にもう一人の人間がひそむ。これは生命の神秘、宇宙永劫の神秘に属するものか、通常の理知や情念では解決の出来ない割り切れない人間がゐる。これを自分は「幻影の人」と呼びまた永劫の旅人とも考へる。p185

次に自分の中にある自然界の方面では女と男の人間がゐる。自然界としての人間の存在の目的は人間の種の存続である。随つてめしべは女であり、種を育てる果実も女であるから、この意味で人間の自然界では女が中心であるべきである。男は単にをしべであり、蜂であり、恋風にすぎない。この意味での女は「幻影の人」に男よりも近い関係を示してゐる。p204

私の考えでは詩の本質は詩人がぞくしている社会や民族や種族によらないで、もっと普遍的な人間存在の条件に関係すべきものであって、一つのヒューマニズムであると思う。つまりどんな社会の中でも、どんな民族の中でも詩の本質はかわらないと思う。もし変わったとすればそれは詩というものの滅亡であって、それもあきらめなければならない。詩の滅亡というようなことはいつか未来の世界において実現されるかも知れない。私はそれに対して少しも愛惜を感じない。「そうした未来の世界における詩人の位置と任務はどういうものか」という仮設的な質問に対して、私はまともに答えられない(「詩人と人間の世界」)。p271

西脇順三郎は初めから一貫して生の感情表白を否定して、詩とは新しいイメージの世界を作ることであると主張してきた。ある記者が戦後、何十年ぶりかで西脇順三郎を訪ねて「先生、詩とは何でしょうか」と質問したところ、「遠いものの連結です」と、戦前とまったく同じことをいわれたのに驚いたという。p361

新倉俊一『評伝 西脇順三郎』



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