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野村喜和夫『ランボー『地獄の季節』詩人になりたいあなたへ』より


詩人たる者、まちがっても「自分探しの旅」になんか出ちゃいけない。(略)だいいち、自分探しなんかしてどうなるのだ。いまここにある愚かな自分、みじめな自分、そのことの確認で十分である。さらにそういう自分を観察してみれば、分裂している、二重あるいは多重である、そのそれぞれが言葉を発している。しかし、それが詩人であるということなのだ。分裂してないより分裂しているほうがスリリングだし、一重よりは二重あるいは多重のほうが豊かだ。そう考えればいい。かつてボードレールは、「詩人は、思うがままに彼自らであり、また他人であることを得る、比類なき特権を享受する」と述べた。それを受けるようにランボーも、前述の「見者の手紙」のなかで、よりきっぱりと、「私とは一個の他者だ」と述べている。その後の文学や哲学においてさかんに議論されることいなる有名な断言だ。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を近代的な自我意識の淵源に置くとすれば、それを否定し、それを近代以後の別様の主体のあり方へとひらくのが、ランボーのこの「私とは一個の他者だ」という言い方なのだ。しかしまあそんなに七面倒くさく考えなくとも、もともと詩人というのは、取り憑かれた者、巫女、シャーマンというに近い。自分を探すのではなく、自分の外に出ることが肝要である。p44-45

詩人にとって反抗は重要だ。とびきり重要だ。社会的な意味での言語は、いつも安定した状態に落ち着こうとする。でないとコミュニケーションが進まないから。フランス語でそれをラングというんだけど、それに対して、なんかつまらないなあ、くだらないなあと思うのが詩人という人種なのだ。彼はそういう言語にゆさぶりをかけて、原初の、あるいは未来の、言語そのものがゆらぎ、あるいは生成しつつある状態を夢見るのである。p74-75

たしかに沈黙とは言葉がない状態のことなのだから、それを書くというのは不可能であり、語義矛盾である。そう考えるのが世の人、常識の人であり、だが詩人とは、言葉のないところにまで言葉を届かせようとする人のことなのだ。夜を書くというのも、ほぼ同じことだろう。ひっくるめて、「言い表しがたいもの」を書くこと、これが肝要なのである。p81

そういえば、かのボードレールも言っていた、天才とは、自在に取り戻された幼年のことである、と。ニュアンスの違いはあれ、詩人というのは、だいたい同じようなことを考えるものなんだね。p82

一回目の授業でも予告しておいたんだけど、覚えているかな、このイロニーこそ、詩の近代性現代性を特徴づける大きな要素である。いま詩を書きたいあなたにもぜひ身に着けてほしいテクニック、いや精神だ。ではイロニーとは何か。自己からもうひとつの自己を生み出すことである。そのようにしてもとの自己との距離を創出し、その距離においてもとの自己を批判し、からかい、突き放すことである。p91

二回目の授業でもふれたけど、詩は意味じゃない、すくなくとも意味がすべてじゃない。言葉は、ふだんわれわれはそれを透明な媒体のようにみなして使っているから気づかないけど、じつは意味のほかにもリズムとか音韻とか言外の意味とか、たくさんのものを放出している。それらをひっくるめた言語空間の全体的雰囲気をさして詩というのだ。p115

ふつうの言説って、どういうものだろう。ある目的にむかって歩いてゆく、途中寄り道したりするけど、最終的には目的地にたどり着いて、その瞬間、歩いてきたことは忘れてしまう、そんな感じではないだろうか。(略)かつてポール・ヴァレリー(という大詩人)は、散文を歩行に、詩を舞踏にたとえた。(略)ひとは詩を書くから詩人なのではない。詩に近づき、詩を離れる往還を行なうからこそ、詩人である。p128-129

野村喜和夫『ランボー『地獄の季節』詩人になりたいあなたへ』



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