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【掌編小説】きもちがよくなるくすり

「眠れないんです」
そう訴えると、医者は私の顔をじっと見つめて、
「なるほどね、お薬をだしましょう」
「睡眠薬ですか?」
「まあ、そんなところです」
 言いながら、カルテにボールペンで何語かわからない文字を書きつけ
「きもちがよくなる薬です。寝る前に飲んで下さい」
 まだ聞きたいことがあったが、看護婦が次の人を呼んでしまった。
薬局で薬をもらうとき、若い女の薬剤師が私の顔を5秒くらい凝視したので二人は見つめ合う形となった。何か言われるのかと思ったが「お大事に」とだけ言って、私が代金を支払うとすぐに後ろの薬の棚の方にいってしまった。
家に帰って、ほか弁を食べて、風呂に入る前に、忘れないようもらった薬をテーブルの真ん中に置いておいた。
風呂から上がると、テーブルの真ん中に置いたと思ったのに、薬は端の方にあった。変だなと思ったが、水と一緒に飲んでベッドに入った。
やはり、眠れなかった。
けれども、昨日までのように、いらいらしなかった。
まるで、深山の泉のように、心は落ち着いていた。
とてもさわやかな気分だった。
こんなすばらしい気分は生まれて初めてだった。
気づけば朝だった。
あまりにも気持ちが穏やかすぎて、眠ったのか眠れなかったのかもわからないほどだった。
眠気は感じないので、たぶん、眠ったのだろう。
素晴らしい気持ちは家を出る時もまだ続いていた。
会社に向かうこの時間、いつもは嫌でたまらないのに、駅へと歩きながら、まるで、どこかに遊びに行くときのように気持ちが浮き立っていた。
かといって、テンションが高い、というのとも少し違い、激しいリズムの楽曲の根底で静かに長く響くストリングスのようにさわやかに落ち着いているのだ。
こんな気持ちは生まれて初めてだった。
が、会社に着く頃にはその気持は徐々に薄れてきた。
薬が切れて元に戻ったらしい。
昼前に、ものすごいいやな気持ちになってきた。
いつも会社は嫌なのだが、それ以上に、もう、死にたいくらい、もう一分一秒と事務所にいたくないほどの悲惨なほどの殺人的な鬱であった。
私はたまらず、理由をつけて客先に行こうとしたが、午後から会議があるのでそれもかなわない。
同僚に昼食に誘われたが、食欲どころか食べるという行為がとてつもなく面倒に思え、断った。言葉を発するのも面倒で、黙って首を振った。同僚は変な顔をしていた。その変な顔をみて私はとてつもなく腹が立った。
「なんだその顔は!けんかを売っているのか!」
叫んでしまった。事務所中の顔が私の方を向いた。
「何だ、何か文句があるのか!」
 部長が青い顔で立ち上がり、私の方にやって来た。部長が私の所に到達する前に私は部長に歩み寄り顔面を握り拳で思い切りなぐったら、部長はふっとび、窓ガラスを突き破って落ちていった。
私は、おかしくてたまらずげらげら笑った。
 (了)

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