薔薇青色花言葉

薔薇を食べてはいけない

 薔薇を食べている人を見たことがありますか? 最近はそう珍しくもなくなりましたよね。先月だったでしょうか、夜の駅前広場で見かけたときも、またか、と思ったくらいですから。高そうなスーツに身に纏った初老の男でした。いつもは、素知らぬふりをして通り過ぎるのですが、そのときは、足を止めてしまったのです。きっと、すごく、おいしそうに見えたからでしょうね。花壇の前にしゃがみこんで、目を閉じて口を動かしているようすが、まさに至福、という表現がぴったりで、高貴な雰囲気さえ漂っていました。薔薇を持つ指の隙間が黒く光っていました。棘の生えた茎を握りしめているので皮膚が破れて血がこぼれていたのでしょう。息を殺して見つめていると、男は、口を動かしながら、さらにもう一本薔薇を引きちぎると、あたしに差し出したのです。
「お嬢さん、あんたも食べないか」
 驚いて身動きできないでいると、男は、手を差し出したまま、もう一方の手に残っている茎を口に入れました。棘がいっぱい生えた茎をです。あたしは、あっ、と小さな声をあげてしまいました。棘が、舌や口腔を突き破る音が聞こえるような気がしたのです。男は、泣き笑いのような顔をして茎をしゃぶっています。痛いとか痛くないとかではなく、意識がどこかに飛んで行っているみたいでした。心が少しざわつきました。薔薇を食べてみたくなったのです。気づけば、男が差し出す薔薇に手を伸ばしていました。棘が刺さらないようにそっと握ったつもりでしたが、それでもちくちくしました。花弁を口に含んだ瞬間、周囲から音が消えてなくなりました。甘いようで、苦いようで、味がないようで、舌の上で何かがとけて広がる感触が心地よく、頭がぼおっとしました。さすがに茎は捨てましたが、その後も男が差し出すままに、いくつかの薔薇を食べてしまいました。
 次の日から、薔薇があたしの心を占領しました。会社で仕事をしていても、家でテレビを見ていても、薔薇のことが頭から離れません。それに、何を食べてもおいしくないのです。大好きなお菓子を食べても、とろけるような薔薇の食感には到底勝てないのです。数日後、耐えきれなくなったあたしは、駅前の広場に向かいました。そして、もう数本しか残されていない薔薇を全部食べてしまいました。その日はそれで満足できたのですが、薔薇の本当の恐ろしさをあたしはまだ知りませんでした。数日もしないうちに、あたしは、薔薇を求めてさまよい歩くようになったのです。お化粧もしなくなり、髪もとかさず、お風呂にも入らずに、ずっと同じ服を着ていても平気でした。薔薇を食べることしか頭にありませんでした。会社にも出勤しなくなり、薔薇を探して町中を歩き回るだけの日々でした。薔薇を食べているのは、あたしだけではありません。時がたつにつれ、町から薔薇はどんどん姿を消し、手に入れるのに大変な苦労をするようになりました。やがてせっぱつまって、他人の家の庭に無断で侵入したり、花屋の商品を盗むということまでしなくてはならなくなり、ついには、町中どこを探しても薔薇は見つからなくなりました。あたしは、列車に乗ってあちこちの町を訪れて薔薇がありそうなところを探し始めました。そして、ある町で、ふと思い立って小学校に忍びこみました。日曜日だったし、日も暮れかかった時刻なので、校庭には人影はありません。祈るような思いで、校舎の陰の小さな花壇を目指して歩いていると、薄闇の中にほんのり赤いものが浮かびあがっているのが見え、踊りだしそうになりました。思わず駆けよって、喜び勇んで手を伸ばそうとしたとき、花壇の真ん中にぼろ布のようなものが横たわっていることに気づきました。目をこらすと、それは人間でした。薔薇を引きちぎっては乱暴に口に押しこんでいます。その凄まじい勢いにあっけにとられながらも、すぐに我に返って手近な薔薇に手を伸ばしました。この調子だと、小さな花壇の薔薇はすぐになくなってしまいます。急いで口に入れようとしたそのときです。にゅっと伸びてきた手が、あたしの薔薇を奪い取ったのです。視線を上げると、そいつは奪った薔薇をすぐさま自分の口に押しこんで、にやにや笑っています。その顔を目にしたとたん、思わず声がもれそうになりました。埃や泥で全身ひどい有様でしたが、その顔は忘れられません。駅前の広場で、あたしに薔薇を食べさせた男だったのです。とたんに、ものすごい憎悪に襲われました。すべてはこの男のせいです。あの夜、この男があたしに薔薇を食べさせさえしなければ、あたしは、仕事も、人間らしい普通の生活も失うことはなかったのです。怒りに我を忘れ、あたしは足元を探って手に触れた手頃な石をつかんで男の頭上に振り上げようとしました。その瞬間、右の額に凄まじい衝撃を感じ、あたしは花壇の中に倒れこみました。両手をついて身を起そうとしたら、今度は後頭部を何か固いもので殴られ、動けなくなりました。ぼろぼろの服を纏ったおそらく女と思われる人間が、視界をよぎりましたが、すぐに目を開けていられなくなりました。二人が薔薇を引きちぎる音と咀嚼音だけがやけにはっきりと聞こえる中、次第に意識が遠のき、このまま死ぬのだなと思いましたが、怖くもなんともありません。あたしには身よりもないし、気がかりなことは何もないのですが、これだけはお伝えしておきたいです。どんなにおいしそうに思えて心ひかれても、決して薔薇だけは食べてはいけません。薔薇を食べている人を見かけても、絶対に立ち止ってはいけません。
 絶対に、いけませんよ。

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