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小さな好奇心に、ていねいに水をやる

例えば、食べたこと無い31アイスクリームの味を注文してみる。たまにはスマホを持たずに旅にでてみる。ウソみたいな赤色をコーディネートに取り入れてみる。ランチに今まで喋ったことのない人を誘う。

大切にしていることは、つまりはそういう類のことだ。

「挑戦」なんて大それたものではない。
小さくて笑ってしまうような好奇心の種をたまに拾って、ていねいに水をやるだけ。


人生はそれ自体が宝探しみたいなもので、なにが光るのか・どこに自分のお宝があるのかはわからない。だから、ビジネス書に書かれがちな「とにかく行動しろ!」みたいな言説もあながち間違いじゃないなと思う。

ただ、回り道にしか咲かない花があるという言葉が示すように、平凡な日常の中にこそ思いがけない出会いがある。息をきらして走っているときよりも、のらりくらりと散歩しているほうが、周りの景色はよく見える。

「おっ」と思ったものを拾って、しばらく水をやってみると、想像を超えた大輪の花が咲くものだ。

例えば、ぼくにとっては短歌という種がそんな感じだった。大学の本屋さんにちょこんと置いてあった『短歌タイムカプセル』をペラりとめくってみたことから始まる。それまでは短歌に塵ほどの興味もなかった。

別に目的意識があって始めたわけではない短歌という遊び。

まいにち一個ずつ、お気に入りの短歌を探してツイッターに感想を書く。どう考えても、就活のESには書けない。これで人間的に何かが成長したかというと、何も成長していないと思う。要は、何かに役立てようと思ってやっているわけではないのだ。

ただ、身の回りに溢れている素敵な7文字や5文字が目に映るようになった。触れてみないとわからない感覚がたしかにある。

毎日、ひとつずつ好きな短歌を紹介するという行為は、まさに宝探しのようである。毎日膨大な作品が生まれていて、光るものはわずか。その分、ぶっとぶような作品に出会えたときの感動は大きい。

世界の切りとり方が少しわかった。
落ちる桜は炎だし、死はすき透るものなのだ。



思い返してみれば、短歌との出会いのような
小さな好奇心の種に生かされている。

高校のときは物理を専攻していたけれど、進学したのは生物学科だ。理由は面白そうだったから。クラシックギターを始めたのも面白そうだったから。conote inc. で働き始めたのも、面白そうだったから。

どの選択をしたときも、将来のことなどは全く見えていなかったけど。素敵な出会いがたくさんあった。これがなかったと思うと恐ろしい。


ぼくは知っている。
はじめは小さかった好奇心が、
大きな出会いや感動を連れてくることを。

明日はどんな歌に出会えるだろうか。

散歩しながら、種を拾うよ。


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