運命について思いはじめる
ある日仕送りで瓶詰めの梅干しが届いた。1リットルくらいの瓶に詰められた梅干し。梅干しを食べる習慣がなかったので、しばらくそれを台所の炊飯器の横に置いていた時期がある。ざっと三年くらいの時間が経って、瓶は埃をかぶっていた。
大学に三年通った秋のころ、ご飯に乗せてみようとふと思い立って蓋を開けてご飯に乗せる。口に運んで、舌の上に広がったのは「森の味」だった。森の味ご飯。森の味、森の匂いというのは、落ち葉の匂いであった。昔住んでいた家の近くに、ノコギリクワガタがたくさん取れる林があって、その場所へ踏みこんだ時の匂い。落ち葉の敷き詰められた地面から立ちのぼる匂いだ。
腐ったもやしの匂いを嗅いだことがなかったので、想像でしかないのだが、梅干しの「森の味」と同じような匂いだろうか。大学一年生になったばかりの友達が腐ったもやしを食べて、数日入院していたことも思い出す。上で引用したもやしを想像するに、消費期限が二日くらい切れた頃だろうか。そこまで時間が経っていないはず。
そこから<運命について思いはじめる>のは、一目みればわかる凄いところで、かなりこの歌が好きです。『行け広野へと』には大きなものごとを呼び寄せる気分が通底していて、しかも服部真里子の名詞の斡旋によって極まっている。作者の気分が端的に口からぽろっとこぼれたのがもやしの作品だ。ほかにも遠いところへと繋がれた歌がある。
病む犀をテレビで見ていると外は暗くなってきていて、もうじき夜が来る。というだけにはどうしても読めない。真っ暗闇に一頭だけの犀が立ち、ずしんずしんと近づいてくる時、テレビにあった黒がひろがって此処まで届いてくる。はじめて読んだ時から犀が夕闇をもたらす場面が流れている。三句目の「たり」が犀の重い歩みをこちら側まで引っ張って、そうして犀の歩みが境界を超える。
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ところで、『行け広野へと』のなかで偏愛している短歌たちがあって、それも紹介したい。薄明るい霧の中でちかちかと瞬いている友達の二面。今この場所から振り返れば、しょうもなさと過ごした季節が光り出す。言葉が記憶をかろやかに祝福する。
読んでくださってありがとうございます! 短歌読んでみてください