国士の気配が漂ってくる
わたしたちが通った岡山大学のキャンパスはなかなかに広い。からっとした風が吹き、夕陽の青さや赤さがよく見える。大学も、大学のまわりも平坦で自転車があればどこにでも行けた。映画館、音楽、美術、喫茶店、大きな公園はひととおり揃っていて、過ごしやすい場所だった。
初めて話したとき、長谷川さんはすでに大学を卒業していた。当時流行っていた音声通話アプリで、共通の知り合いづてにたまたま初めて喋って、同じ大学に通っていたと知る。その何ヶ月か後に、長谷川さんが岡山に寄った折、からあげ屋さんでお酒を飲んだ。あのとき会わなければ、わたしは学生短歌会に入ることはなかった。
発売日が近づくやいなや、いままで長谷川さんが関わってきた人たちが次々と『延長戦』の感想をあげている。それは人望であり、関わってきた人の多さである。だが、それ以上に、真摯さの華やかな結実を、読者がしんそこ感じたからだろう。
■
歌集の形で作品群を読むと、不思議なことに気づく。結句に動詞の終止形が多い。他の歌集と厳密に比べてはいないけれど、体感してかなり多い。体言止めも多い。体言止めと終止形で八割くらいはあるのではないか。きわめつけに連作中でそれらはしばしば連続する。
語尾の単調さは口語短歌の弱みとして語られ、口語を使う歌人はこれを避けるために苦心する。しかし、『延長戦』の場合は意図的に単調さをつくっているようだ。それが何を形作るのか。
一つ言えるのは、結句のバリエーションの制御によって、わたしたちは歌集全体を回想のように読まされるということだ。作った瞬間に動かなくなるもの全体についてふんわりと言えはするが、初読の『延長戦』で受けるその印象は明らかに強い。終止形は吐露やため息のように、体言止めは写真のように。書かれているというより、そこに、置かれている。
端正な定型(5/7/5/7/7)としゃべり言葉も、この歌集の空気をつくる。結句の処理も相まって、ボリュームはほとんど一定。波の音の録音を聞いているように淡々とシーンは進んでいく。
そうして、時間感覚は麻痺して、長谷川さんの観た風景や思ったことを私たちはなぞる。回想の時制は過去形ではない。思えば、回想に没入するとき(させられるとき)、ほとんどの事柄が現在型や単なる説明として流れているのだった。
そして歌集は長谷川さんの観たシーンを映しながら、ゆっくりと終わっていく。最後に置かれた連作には、打たれた。これから歩く道は全くの未知だけど、向く方向は自分で決められる。頭からなぞりながら読んでほしい。そうやって読まれるべき歌集だと思う。
最後にもう三首だけ、好きな歌を引く。
この記事が参加している募集
読んでくださってありがとうございます! 短歌読んでみてください