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記録 − 無の群衆

昨日久々に外に出た。平日だから大丈夫だろうとは思っていたが、やはり都会にはそういう概念は無いようだ。行きの電車の帰りの電車も、人が大勢乗っていた。服装もバラバラで、目的地もバラバラなはずの、個人個人の彼らは、あの後どこへ行ったのだろう。

長時間・長距離移動が心身共ににしんどい私にとって、ターミナル駅の中にあるお店巡りは絶好の穴場スポットだ。特に大きな駅はショッピングモール的に店舗の数が充実している。(店舗には恐縮だが)ウィンドウショッピングくらいの気軽さと狭さが、今の私にとってはベストな外出なのだ。

だからこそ人がそこまで混んでいないであろう平日を狙って行ったのだが、たいへん甘い考えだったとここでも気付かされる。外国人観光客の多さだ。何泊用なのかもわからないほど大きいキャリーケースを抱えた外国人観光客の集団と何度もすれ違った。きっとこれから構内で土産でも買うのだろう。

様々な言語が反響する空間で、私は自身のある変化に気づいた。群衆とも呼べるような数の人達が行き交う中で、彼らに対して全くの無関心、もっと抽象的に言えば、そこにいるのにいないような感覚を抱いていたことである。


群衆 − パーソナルエリアの不在

昔から人混みは得意ではない。特にこの病気になってからは本当にダメになってしまった。数年前に行ったあの某夢の国内ですら、あまりの人混みに気がおかしくなってほとんどの時間を休憩に費やし、終いには閉園時間よりもかなり早い時間に園を後にした。あの時も一緒にいたパートナーには、本当に申し訳ないことをしたと未だに思っている。

ズケズケとパーソナルエリアに入られる感覚が気持ち悪くてたまらないのだと思った。人混みに対して何を理不尽な、と思われるかもしれないが、主観だとどうしてもそう考えてしまう。私自身が人混みに対して迷惑がかからないよう常に神経を張り巡らせているからだ。言わば神経を張り巡らせている全範囲がパーソナルエリアになる。
他人からしたらそんなこと知らねえよ、といった感じだろうが、病的なまでに他人に迷惑をかけない、調子に乗らないようにと考えていた私にとって、それは当たり前であり、当たり前ではなかった。ある意味、自分を信じて疑わなかったのだ。

誰かに迷惑をかけないという心意気は良いかもしれないが、身の丈に合っていないそれは結局病気という最大の迷惑を引き起こした。私は結局人に迷惑をかけたくないわけじゃない、人に迷惑をかけられるのが嫌だったのだ。こっちは迷惑をかけないからそちらもかけるな、というような、そんな免罪符のようなものを提示することで、私に湧き上がる怒りを「パーソナルエリアへ介入」という言い訳に変え、そして正当化していたのだと、今になって思う。要するに調子に乗っていたのだ。

あの時かけられた呪詛は、今になって自分に対する答えとなって返ってきた。


このnoteを書く以前から、自分にメンタル変化についてメモに残していたことは以前のnoteでも述べていた通りだが、こうした記録は「主観の所在」を明らかにしてくれる。私にとっての主観は、過去においては特に「外(他人)」にある用に見えて、結局自分のことしか考えていなかったのだ。

「何を考えているかわからない」、ああその通りだ。自分でもわからないのだから。


無の群衆 − パーソナルエリアの縮小

今回の外出で得られた群集に対する無関心という変化は、今度こそ自己観察がうまくいっているであろうことを示していた。「他人には他人のパーソナルエリアがある」、「私だって誰かにとってはただの他人」、それだけのことに何故目を向けられなかったのだろう。自分の悲劇性に目を向けすぎて、寄り添いすぎて、根本を見失っていたのだ。

だからこそ周囲に無関心でいられた。問答無用で迷惑をかけても気にしないとかそういう話ではない。これまた抽象的だが、「一般的な人間の感覚」のようなものを初めて得られたような気がしたのだ。普通は他人にそこまで関心はない、普通の人は私に興味なんてない、そんな当たり前が「感覚」として得られたことが、私にとってたまらなく嬉しかった。


それでもまだ一人で外に出ることはできない。一人でできることの方が少ないのかもしれない。この感覚ももしかしたら、数日後には反転しているかもしれない。

それでもやれることはまだあるはずだ。
そう言い聞かせでもしないと、「暇」になっちゃうからね。

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