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逆張り

俗に、大勢や時流に逆らう言動をすること。

コトバンク(デジタル大辞泉)

自分の感情に寄り添うことは果たして必要なことなのか?
自分の声に耳を傾けることは果たして必要なことなのか?
嫌なことは明確に避け、心地いい場所を見つけ、そこに身を委ねようとすることは本当に己にとっての癒やしであるのか?

自分を受け入れることは、いつ爆発するかもわからない感情を抱えながら生きている自分を受け入れることは、死にたいと言いながら死ねない自分を肯定することは、本当に必要なことなのか?


人は寄り添いながら生きていくものだ。それは分かっている。「自分」に限った話だ。自分の感情に、感性に、情動に、つまり五感全てを本当に受け入れる必要はあるのか?
どうして嫌な自分を否定してはいけないのか?

自己否定は本当に悪いことばかりもたらすのだろうか。確かにネガティブにはなるだろうが、それが何だ。それが本来の自分であったらどうする。ネガティブな感情であれば、全て排除しなければならないのか。


一つ、実験的に試そうと思っていることがある。己の感情の否定、もとい無視だ。
特に私の病気は躁鬱に近い部分がある。つまり全ての感情を受け入れていたらキリがないし、スタンダードが抑鬱という状態だ。それを否定する。

自己催眠のようなものだろうか、知らないが。
だが己に寄り添い続けることは、感情を否定せず受け入れ続けることは、すなわち抑鬱のスタンダード化を定着させる可能性がある。あくまで私の話だ、誰にも関係のないことだ。どこの誰とも知らない私がどうなろうと構わないだろう?

このまま精神病と生きていくつもりなどない。いつものような躁状態かもしれないが、ではなおさら否定する。自律とも違う完全な否定。それを肯定させるため、考えて試みる価値はあるはずだ。

結果的に苦しめられたあの日のカウンセリングのように、結果的に誤診のまま通っていた心療内科のように、結果的に苦しめられ続けるnoteの投稿という過去のフラッシュバックのように、どこに何があるかはわからない。


逆張りだと、馬鹿にしてくれるか?

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