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「良い子」たちへ

感情の波が相変わらず行ったり来たりで忙しない。今は胸騒ぎがするほど静かだ。
久しぶりに処方された抗鬱薬に今回はなかなか体が慣れず、毎日毎日吐き気と戦っている。もう慣れたものだ。

久々に切りつけた左腕の傷もだいぶ塞がってきた。黒くなった瘡蓋が汚くてもどかしい。剥がれた痕も白く腫れた線を残している。
今更傷跡を隠すなんてことはしない。面倒だ。見られたところで誰にも関係のない話だ。

最近になってようやく、自分の思考回路の歪みを自覚できてきた気がしている。自ら負のループに飛び込んでしまうこと。自らもストレスを生み出していること。何より、自らが不幸な自分を求めていること。

言い換えれば「誰かに」助けてほしいんだ。自分自身で自分を救うことができないから。それでしか助けを求めることができないから。誰の目にも見える不幸に縋らないと、誰の目から見ても明らかな不幸に陥らないと、「誰か」を頼るなんてしてはいけないと、そう思い込んで生きてきたから。

だけど実際そうなんだ。程度はどうあれ、自らが声をあげないと誰にも届かない。謙虚でも、遠慮でも、烏滸がましいと思っても、全部関係ないんだ。自らが動かないと、誰も気づいてくれるはずがないんだ。


世間は「悪い子」に優しくできている。彼らは平気で他人に助けを求める。平気で自らを主張する。平気で他人を利用する。平気で誰かの人生をめちゃくちゃにする。それをいくら悪と断じようが、結論は非情だ。「良い子」の行く末は、私達ならもう知っているだろう。

別にそれでいいんだ。それを自らがどう認識するかが重要なんだ。
「悪」だと糾弾しようが、その理不尽に泣こうが、絶望しようが、諦めて消えてしまおうが、何だっていいんだ。自らの選択次第で道が、景色が、結果が、終わりが変わる。

私は「良い子」を守りたい。私自身も「良い子」でありたい。

そこに「悪」を並列させる必要はない。自らを並べて、比べて、引きずって、無意味に悲しむ必要はない。私達「良い子」にはそれができるはずだ。

いつだって自分一人で全てを抱えて、自分一人で悩んで、自分で自分を傷つけて、自分だけが消えればいいと判断を下しながら、周囲にはそれを一切悟らせない静かな「良い子」たち。善も悪も、何もかもを背負って、いずれ消えていく「良い子」たち。さながら神様だ。

でも私達は神様じゃない。ならせめて、「悪い子」にも同じ態度を取ってくれ。いかなる時も自分に介入させないでくれ。己の感情は自分一人のものだ。「悪い子」のために、自らの退路を断たないでくれ。生きることが全てではないが、「悪い子」のために、自分の生を歪ませないでくれ。これは精神論でも根性論でもない、ただの私自身の思考だ。所詮ただの綺麗事だ。

無理に生きる必要はない。私もどちらかといえばそちら側の人間だ。
明日のことすら最早どうでもいい。将来だとか何年先のことだとか、そんなこととっくに、考えることすらやめている。私が生きていようが死んでいようが、誰にも関係のないことだ。

だけど、確実に息をしている今は、助けてほしい。私の存在を認めてほしい。あなたの存在を知覚させてほしい。その対象は「良い子」以外にありえない。「良い子」は、「良い子」同士で利用し合えばいい。そこに自ら「悪」を招き入れる必要はない。その余地すら与える必要はない。ただ、私達が互いを認め合えばそれでいい。

そもそも「悪」なんて、認識する必要がなかったんだ。最初から思考回路にいれる必要もなかったんだ。前提から狂ってしまっていたんだよ、神様。

話しをしよう。場所はどこでも構わない。苦しんでいること、許せないこと、殺したいほど憎んでいる誰か、何だっていい。いっそ遺言でも構わない。関係性なんて何だっていい。どうでもいい。存在しているならそれでいい。ただ、「悪」が介入できない場所で、穏やかな場所で、広いインターネットの何処かで、話をしよう。


私達は不幸に目を向けすぎている。不幸に慣れすぎている。「悪」を知りすぎている。無関係の恐怖まで一人で抱え込もうとしてしまう。塞ぎ込んでしまう。向けられていない視線にまで怯えてしまう。誰かの優しさを、自分には烏滸がましいと遠ざけてしまう。そんなの、馬鹿らしいじゃないか。反旗の翻し方なんて、とっくに知っているはずだ。

あとは一歩踏み出すだけだ。一人が怖いなら、少なくとも私がいる。私にも貴方がいる。それだけで十分だ。


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