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不完全

何事も「ルーティン化」するのが早すぎる。だから趣味が持てない。趣味ですら気づけばルーティン作業の一つになってしまう。ようやく趣味と呼べるものをみつけたはずなのに、気づけば義務を伴うルーティン作業の一つだ。どこまで自分を知り尽くしているんだ。どこまで自分を知らないんだ。もう訳がわからない。


大人になるにつれ、ルーティン化は加速した。というより終わりが見える・分かった途端にやる気がなくなる感覚。学生時代の研究、もとい修論ですらそうだった。

研究過程で結論が早々に見えてしまった私は、テーマ決定数日前に研究テーマを変更した。つまり、これまでの研究を使いつつ、たった数ヶ月の内に新たな研究を始めながら修論を完成させる必要があった。今思うとバカバカしいにも程がある。要は通常M1で決める研究テーマをM2になってから決定したようなものだ。それくらいに「終わり」を嫌っていた。(無事に修了できたことだけは言っておく。)

ゲームの類もそうだ。元々ルーティン作業的ゲームしかやらないが、それでもそこに少しでも義務が伴った途端、終りが見え、放棄する。結末がどうなるかなんてわからないのに、頭の中の結末を、さも確定した変えがたい未来かのように信じ切って、終わらせる。終わりを迎えたくないから終わらせる。外野に終わりを決定させられるのが嫌なのだろう。

ルーティン化はまさにそれだ。最大効率で動く私にとってこれ以上無い効率化を図れた途端、それ以上の効率は不可能と判断し、「終わらせる」。趣味もゲームも人生も、とにかく例外なく過程を楽しむという感覚を持ち合わせていないのだ。


死を希うのもそこからきているのかもしれない。この先の人生、いくら例外があったとしても程度が知れている。だったら今終わらせても、将来的に終わらせても同じではないか。むしろ死のタイミングを自分で選ぶことができるなら、そちらの方がいいじゃないか。

どこまでが性格なの?どこからが病気なの?この線引を問うことすら「おかしい」人間なのか?誰も問には答えず、耳障りの良い言葉を並べて場を逸らす。さすが改良の余地のある社会、そこだけは飽きさせない。


人には不完全さが必要なのだろう。完全を理解できないという不完全さを自覚するためには、そのことを理解する必要がある。ヒトでも良い、ロボットでもAIでも何でも良い。誰でも良いから、不完全であるはずの私に、完全に不完全であると現実を叩きつけてほしい。

最大効率のルーティン化とか、終わりを想像するとか、全部脳が作り出す都合のいい妄想だ。こんな話、何回しているんだろう。完璧じゃないから覚えてないや。

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