「錦繍」を再読。

 人生の時間は限られているから、映画でも小説でもなんでも、できるだけ幅広く多くの作品やコンテンツに触れ、インプットするべきだと考えている。そんな損得感情や功利主義も相まって、私は同じ物語を再鑑賞したり再読することがほとんどない。

 ただ、時々例外もある。

 先日、義実家の本棚で宮本輝の「錦繍」を見つけた。
高校生くらいの時分に読んだ当時、タイトルもさることながら浮かび上がる男女のやりとりの情景の美しさに激しく心打たれた。
「世の中にはこんなに美しい作品があるのか」
「自分もこんな作品を書いてみたい」
などと思いながら感無量で最後のページを閉じ、ハードカバーをためつすがめつした記憶がある。

 ただ、読後感のみ鮮烈に残っていたものの、男女の書簡形式であることと、その男女は再会することなく完結する、ということくらいしか覚えておらず、細かい内容は忘れていた。

 30代の自分が今これを読み返してみたらどう感じるだろうかという好奇心も手伝って、再読してみた。

 結果、率直に言って、正直残念な思いがした。
どうしても、互いの言葉の端々から男女の身勝手さ、汚さ、自己愛、自己陶酔のようなものが見え隠れしてしまって、そちらの方に気を取られてしまった自分がいたのだ。おそらく高校生の時の自分はそんな大人の身勝手さに気づかず、ただかつて愛し合っていた過去を懐かしむ男女の織り成す美しい書簡としてしか読んでいなかった。

 読んだことによって、当時圧倒的な美しさに心打たれた大事な思い出が陳腐な紛い物、までとは言わないが、あの時の感動は一体なんだったのだろう、と疑いの念を抱いてしまった。

 自分は遂に、情熱を忘れた現実主義者に成り下がってしまったのかという落胆もある。

 前向きに捉えれば、「大人に成長した」と言うことになるのかもしれないが、大人になっていろんな知見や経験を得たが故に、見えなくなってしまった、感じられなくなってしまったものも確かに存在するし、それ自体に価値を感じられなくなりつつある今の自分の価値観にも愕然としてしまうのだ。

 こんな思いになるのなら、読み返さずに十代の心のままそっとしておけばよかったとさえ思ってしまう。

 二度目の錦繍は、少し苦い記憶になった。
お婆さんになった時にまた読んだら違う景色が広がるのかもしれないが…

 ただ、思わず目を留めた場面があったのも確かだ。
 主人公、有馬の内縁の妻である令子について、元妻亜紀が手紙の中でこのように語る。

 恋人時代、私たちは、つまらないことでよくケンカをいたしましたわね。あなたは決まって、私に言いました。「お前なんか嫌いだ」。でも私は自惚れ屋さんでしたから、「ふん、ほんとは私のこと、好きで好きでたまらないくせに」と思って、余計にいじわるな態度をとったものです。「お前なんか嫌いだ」。令子さんはあなたにそんな言葉を言わせることの出来る人なのですね。

宮本輝「錦繍」

 この部分は、何度も読み返してしまった。特に「令子さんはあなたにそんな言葉を言わせることの出来る人なのですね」は見事としか言いようがない。

 後に二人が書簡を交わしていることに気づいた令子が、有馬から許可を受けてから亜紀から有馬に向けられた手紙を読むシーン。

 令子があなたの手紙を全部読み終えたのは十二時を廻った頃でした。手紙の束を元の机の抽斗にしまうと、令子は立ちあがって部屋の明かりを消し、台所の明かりを点けて、冷蔵庫の中から何やら残り物らしきものを出し、それをおかずに食事を始めました。(中略)玲子は泣いていました。泣きながら、冷や奴を食べ、マヨネーズを塗りたくったハムにかぶりつき、ご飯を頬張りました。

宮本輝「錦繍」

 人が食事をするシーンというのが小説でもアニメでも現実でも好きな私は、このシーンが一番胸に刺さった。おそらくは、前述の「お前なんか嫌いだ」のくだりも読んだ上での食事。残り物を食べ、きちんと片付け寝支度をするこの令子という女性の真っ直ぐで健気な姿がこれでもかというほどに描き出された場面だと私は思う。

 有馬という男は私から見れば本当に本当に身勝手で救いようのない男だし大嫌いな部類だが、登場人物の誰もが誰かを赦し、救われ、それに応えようとし、過去から未来へと再生を図るという意味では希望のようなものが余韻として残る。


 …と、ここまで書いてきて、実を言うと、最初は「錦繍」を再読した直後は、拍子抜けと後悔と八つ当たりにも近い気持ちをぶつけるつもりだったのが、色々と振り返って書いているうちにしみじみと「やっぱり素敵な小説じゃないか」と翻意してしまった私なのである。



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