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【二人のアルバム~逢瀬㉕~病~】(フィクション>短編)

§ 1.眩暈めまい

アパートメントハウスの扉は鉄の大きな扉だった。
この扉は、片手でこの重い鞄を持って、大きな傘を抱えてもう一方の片手で開けるとなると、なかなか入り辛い。
彼は、何とか扉内側に旨く身体を挿入後、
「ただいま…」
と言った。

いつになく、玄関の灯りは乏しく、台所に電気が点いておらず、ベッドの横の電気が点いているだけだった。

—はて、彼女はいないのか、
と思いながら、彼がベッドを見ると、彼女は、彼が
「ただいま」
と言うが早いか、ベッドから突然、起き上がったところだった。
「おっ、おかえりなさい…」
少しほっそりした顔に、疲れが見える。だが、顔色は火照っていた。
「あぁ、ごめんよ、起こしたね。遅くなって。今、帰った…」
彼女は苦しそうに口元だけで微笑んだ。
「お夜食、何が宜しくて?直ぐに用意します」、
と服の乱れを直し、すぐにエプロンをしてベッドから立ち上がった彼女は、台所に立とうとして、ヨロッとして、すぐに頭を抱えて立ち止まった。
彼が何かと見ている前で、彼女は赤い顔をしており、熱を測っても熱は無かった、と彼女は言った。貧血か、と訊くとその場で膝を落とし、目をつぶってしゃがみこんでしまった。意識はあるので、何とか座り込んだ感じだった。彼は驚いて、
「お、おい、おい、大丈夫か。…、好いよ、慌てないで、おい」
彼は彼女を支えにベッドまで素早く小走りに行った。
しゃがんだ彼女は眼をきつく瞑って下を向いており、瞳を彼に向けられなかった。彼には彼女の身体は熱が有る様に温かかったが、違う理由のように感じた。指先と脚先は冷たかったのだ。何となく、眩暈の程度が酷いのが理解出来た。夜食など、今や必要なかった。

数秒前まで、脳天気の様に彼は腹を減らせていたが、今は彼女の混乱した表情を見ているだけで慌ててしまい、どうすべきか、頭が一杯になった。
彼女は、目をぐっと閉じて、眩暈が去るのを待っている感じだった。彼は、まだフラフラしている力の入らない彼女を、後ろから抱きかかえようとした。瞬間的に彼女の身体が軽く感じられた。
—痩せたか。えらく痩せたな。
ベッドから、一緒に寝ていた猫が、ビックリした表情で、目を剥いて彼女を見詰めていた。いつも飄々とした表情のクールな「ブル君」の彼女への視線は、真摯な、自分の養母への心配をする正直な表情だった。
彼は、彼女へ視線を戻し、彼女の顔を優しく片手で撫でながら肩を抱き寄せて尋ねた。
「大丈夫か。ベッドに。好いかい?」
目を瞑ったまま頷く彼女を抱き起し、彼女の背中から助けてこちらを向かせてベッドに寝かさせた。
「どうした?眩暈か」
横向きに寝転んでうっすら回復を見せた彼女の前髪を直してやりながら、ピンクに色づいた肌の冷や汗を自分のハンカチタオルのキレイな所でぬぐってやった。肌は綺麗だったが、顔色はどす黒く、やつれていた。
—そう謂えば、仕事が立て込んでいたせいで、彼女を好い様にあちこちで使ってしまった、何を考えていたんだ、俺は、
と、自分を叱責していた。
—何を見ていたんだ、俺は。
—親父と三条の飯の準備に俺の不特定時の事務仕事に、三条のアシスト…、無理をさせた。
「あぁ…、あなた、あなた」
目を瞑ったまま彼を呼ぶ姿に今すぐ救急車が必要か考える彼が応えた。
「おぅ、どうした、どうした」
突然の状況に彼の声は嗄れていた。
「あなたぁ、今夜は気持ち悪いの…」
彼女は彼の手を探り当て、彼の手を自分の掌で握って、肩口から彼にもたれて、甘えた。彼女には珍しく、彼の手を愛おしそうに頬にあてた。
彼は微笑みながら、彼女の手を握り返し、彼女の頬を両手で握った。
「うんうん、今夜は休んで。料理なんていいから。ごめん、謝るよ。色々させちゃった。明日は間波磔まばたきさんの所の事務員の三木君に、三条のアシストして貰う手筈だから、休みなさい。
それに親父と三条には、今後は金を渡して自分達で喰って貰うよ。あなたは働き過ぎだ」
彼女は、何か小声で言った。
「ん?」
「ん…。少し休めば…大丈夫よ。夜ごはん、あなたの…」
「いや、駄目だ。明日、病院へ行こう。俺が連れていく。一緒に行こう。スケジュールを今から変更して、明日はあなたの日にする。…顔色悪いぞ、俺のミューズ女神様がさ」
面白おかしくくっつけると、弱気な微笑がまた口元に帰って来た。
「あなた…お味噌汁とご飯は温かくてよ」
「あぁ。わかった」
「あなた、私、疲れちゃって。倒れたの。あなたが夕方鳳会長に会いに行って、その後。で、寝て待ってて…。今夜はとっても逢いたかったの…」
彼女は、彼の頚筋に顔を埋めた。甘えた時の彼女の癖だ。
彼は彼女の小さな頚筋に浮いた血管の太さが矢鱈と目についた。
—明日は病院、絶対だ。今、救急車は必要無いのかな…。

彼は自分本位で、こう言う事が必ず起こると分かっていた筈だった。なのに、ずっとこのライフスタイルを続けていた自分を悔いた。
—親父の食餌めしと三条の食餌を作り、早朝から用意をさせて、自分は眠っていた。何て阿呆なんだ、俺は。

彼女は、彼を起こす前の時点で、彼の食事を用意し、自分は食べずに三条のヘルプの為に、ずっと彼女は早朝からパークウェイへ急いで行き、三条に必要書類を作成したりしていた。然も、自宅の横の棟のオフィスで、午後から彼のアシスタントを務めながら、同時に間波磔さんとアパートハウスを見に来た人々の世話や案内を勤めながら、である。

忙しいのは彼女だけで、彼は大鼾で寝ていたのだ。後悔の渦の中で、彼は自分に腹が立った。ベッドの淵に腰かけて、彼女のやつれた顔に涙が出そうになるのを我慢しながら、両手で彼女の手を握った。彼女は彼に甘えて肩にもたれたまま、目を閉じて眠らせた。寝るまで、肩に彼女の軽い小さな折れそうな頚を感じながら、手を握って、じっとしていた。

猫のブルは、その間、彼の表情を棚の上から見下ろし、周囲を俯瞰して睨みつけていた。彼がブルの瞳を見返すと、ブルは怒りの表情を見せた。冷たい瞳で睨んできた。
「僕のマミィに、お前は何てことをしてくれたんだ」
と叱責されているようだった。

彼女が静かに眠り始め、軽く鼾を掻いていた。彼女をそっとベッドに横たえさせて、一人、キッチンへ行き、彼女が下作りした味噌汁を温めて、玄米を入れたホットジャーから温かい茶碗に飯をいれて、少し口を付けた。
彼の横で彼女が微笑んで傍にいないだけで、彼の食欲はどこかへ消えてしまった。彼女の具合が悪いと、こんなに彼は食欲もなかった。

自分の作業机のあるパティッションに入り、小声で三条に電話を架け、
「カミさんが具合が悪くなるほど疲れちゃったので休ませて医者へ行かせてやりたい、俺もついていく、一人じゃ歩けないんで。悪いが数日、オフィスの三田君と一緒に働いてくれ」、
と依頼し、ソレを聴いた三条は驚き、彼女の具合を心配しながら内容を聴き、彼の三田君のアシスト補助を感謝した。父親には、もう睡眠中と思えたので、明日、会いに行こうと決めた。

また、鳳に電話し、妻が倒れたので少し休むと言うと、
「俺達は大丈夫だから、今週から七日間ほど一緒に休んで、大事を取って、彼女に一緒にいてやれ。女にはそれが一番だよ」、
と快諾してくれた。坂巻には知らせて置くし、PJチームにもそう伝える、と言ってくれた。

鳳は基本的に彼のコンサルの仕事の質は高いと評価をしてくれていた。自分の義弟の坂巻の開発プロジェクトは坂巻中心に動いているし、トゥモロートラベルの「アイテナリー」アプリのシステムは、既に組込み担当達がプラン通りに取り組んでくれていたし、彼等は彼女の作った進捗日報にキチンと日々の業務結果を打ち込んでくれていた。三条は鳳や坂巻等と連携しつつ、淡々とプロジェクトを対応してくれていた。

全て彼がコンサル内容を完璧に管理出来ていたのも、彼女が彼の横で、す事すべて、管理者の彼に身を尽くしてくれていたからだ。彼は改めて、彼女の懸命な仕事ぶりに涙を流して感謝していた。

§ 2.病

翌日の朝は晴れていた。あっと言う間に桜は散り去り、暑い夏の幕開けだった。朝になって、彼は彼女の横で彼女の疲れ果てて、痩せてちいさくなっていた彼女の寝顔を心配そうに見つめていた。どす黒い隈が目の周りを覆っていた。
—いつの間にこんなにやつれていたんだろう…

彼女の様子を朝いちばんに電話で話、父は彼女を心配してくれた。飯なんぞは俺が自分で何とかするよ、と言ってくれた。

その父の為に購入していた車椅子に、彼女を載せて、車で市内の県立病院へ連れて行った。紹介状も何もなかったが、内科で診てくれることになった。ざわざわ雑踏に立っている以上に騒々しい病院で、彼女は眼を閉じて彼にもたれてとにかく我慢している様子だった。

内科でやっと番が廻って来て、彼が状況を話すと検査を命じられた。血圧、血液検査、尿にCT、、、彼は弱々しい彼女を連れてツアーのようにたくさんの検査を実施し、その後、二時間以上さらに待たされ、診察室に入ったのは午後2時ごろだった。彼女は、血圧を測って直ぐに連れていかれた手当室でベッドに寝転んで血圧テストをし、今度は座ったままで血圧を取られ、顔は赤みを帯びて、熱が有る様だった。その時点で、次の検査内容が決まった様子だった。

彼女は念の為に熱を測られると、熱は無かった。血圧を横になって測定した際に暫く寝させてくれた。その間、彼女の頬は少し赤みが取れた。血圧を測る時にベルトが締められると、事の外、彼女は痛がった。

看護師が診察椅子に座らせてくれたが、頭がグラグラし、頚が座った感じがせず、首の後ろが膨れた彼女の様子は彼に衝撃を与えていた。
護る様に彼女の後ろに座った彼に背中からもたれて甘える彼女の浮腫んだ身体を受け止めながら、彼は一気に悪化した彼女の表情を見詰めていた。看護師の指示で、彼女はベッド上に横に身体を横たえさせられた。

「お待たせしました。腎臓内科の如月です」
治療室に入って来た医師の如月が自己紹介した際に、腎臓内科、と聴いて、彼の腕の中で彼女はピクッと動いた。起き上った彼女は後ろの彼にもたれるのを止めて、ゆっくりと座り直し、如月に礼をした。
如月がニッコリ笑って、改めて訊いた。
「もうどの位、血圧が高い事を気付いておられなかったのでしょうね」
「あの…血圧が高いって…。わたくし、大体、130程度で…」
「223でした。現在、223/118。今さっき、看護師があなたにしてくれた点滴は降圧鎮痛剤です。後頭部、脳幹の血管が腫れ上がって爆発寸前の状態なので、ベッドで横たわりながら測定を実施しました。脳幹、頚の血管、脚も浮腫んでいます。感じますか。ここです」
如月が軽く押しただけで、ぶよん、と指の跡が髪の毛の上から見える程、残っていた。
「痛い…」
小さな声で、押されたところの痛みを感じた旨、彼女が言うと、如月は、彼に処方箋を手渡しし、同時に
「降圧剤を入れた点滴で血圧は落ちて来るがゆっくりになります。この処方箋は、明日からの分で一か月分です。毎月、処方します。なので、本日はご主人が運転の上、お車でお帰りになり、奥様はご自宅でお休みください」
と言った。

職場等も、指示があるまで休む様に、と如月医師は付け加えた。
「ご主人、奥様に血圧測定器を購入し、毎朝、毎晩、測定願います。降圧剤は明日から早朝に呑んで頂きます。必ず日に一度。朝に。点検して忘れさせないように。それから、体重、血圧、毎日の食事の内容を日報に書いていただきます。今後、指示があるまで、塩分は採食禁止とします。現在、あなたの奥様の血圧は、上は現在223ですが、強い降圧剤を追加したので落ちる筈です。大体、180位まで落ちると思います。また200を超えたら、次回は救急車で来てください。普通の人間の血圧は、上が250になる時点で血管が爆発します。奥様は現在、223。コレ以上上がると、死んでしまいます」
彼女はショックで顔色が変わった。
「あの...」
彼は背中が冷や汗でびっちょり濡れていた。
医師に質問した。
「あの、先生、質問です。私の事業を手伝ってくれていて、業務を一緒に支援していましたが、止めさせた方が好いですね」
「そうですね。まずは、暫く、休ませてあげてください」
如月の口元が少し弛んだ。話を亭主が理解しているのだと医師が分かった後は、指示が彼に直接飛んできた。
「眩暈は、奥様の『脳幹』が、ごらんのとおり腫れているからだと思います。続くようなら電話してください。お薬を差し上げますが、多分、大丈夫でしょう」。

彼女は頷いていたが、彼はメモを取りながら、心は此処に在らず、と言う面持ちだった。
如月は話し続けていた。
「ご主人、今月中は週ごとにここに奥様を連れて来てください。来週、詳しい事を話しましょう。降圧の様子を見て、落ち着いて話が出来るか、様子を見ましょう。
今後、強い降圧剤を呑んで戴く為、上の血圧が160以上で手が温かく、頭に熱を感じる程高いのであれば、外出させないでください。同時にそんなに血圧が高いのが続くと、奥様は腎臓がお疲れのように感じますので、腰痛のはそのせいです。安静にして今日から、一か月をお送りいただきます。お家でゆっくり出来なければ、如月判断とさせていただき、明日の状態次第では、即入院となります。本日この時間以降、塩分を一切取らない事。コレは大事です。塩は捨ててください。それから、日に三度の食事を必ずとる事。宜しいですか」
彼は頷きながら、メモを取り続け、片手で彼に迷惑を懸けている、と子供の様に泣く彼女の手を握っていた。
—俺がついてる、俺が全部面倒見るから、大丈夫だから。

(つづく)

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