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立つ鳥跡を、│ 短編小説


俺は今、最高に満ち足りている。
薄暗いバーのカウンターで男は1人、酒を飲んでいた。シワの寄った黒いシャツからは、ツンとした絵の具の香りがする。
「どれでもいい。強いやつをくれ。俺は今最高な気分なんだ」
バーテンダーは何も聞かず、ただ無言で頷いた。

そう、俺は満ち足りている。
ついこの間までは、こんな高い店で酒を飲むなんて、夢のまた夢だった。


死んだ母親が、俺の絵を褒めてくれた。
画家の仕事を始めたのは、たったそれだけの理由だった。
才能も無ければ、勉強する金も無い。俺の絵は、これっぽっちも金にならなかった。酒どころか、その日の食い物にすら困る毎日。水道も電気も、何度止まったことか。

辞めちまおうと思った。
何回も、何千回も思った。
それでも、辞めなかったのはーーーー、

その時、左から強い花の香りがした。
「あら、先生じゃないの。お隣、いい?」
目をやると、丈の短いドレスを纏った、綺麗な女がじっとりと俺を見ていた。
真夜中に咲いた、官能的な薔薇の香り。女はその唇にも、薔薇のように真っ赤な紅をひいていた。
俺はにやりと笑って、「どうぞ」と隣の椅子を引いてやった。今の俺には、座っているだけでこんな綺麗な女が寄ってくるんだ。
華やかで、魅惑的で、嘘くさい。そんな女が。
何を話しても「凄い」「さすが先生」と褒めてくる女。
気分が良い。あいつは、俺に口答えしてばかりだったから。無神経で生意気で、地味で貧相なあの女。
あいつも絵描きだった。

あいつの絵に出逢ったのは、小さな展覧会でのことだった。
「花」をテーマにした展覧会。俺は1輪の薔薇の絵を描いて応募した。母に初めて褒められたのも、薔薇の絵だった。でも。
あいつの才能を目の当たりにした瞬間。俺はその瞬間、絵の仕事を辞めようとさえ思った。
「母親に褒められた」、そんな理由で絵を描き続けてきた自分が恥ずかしくて、馬鹿らしくなった。

ーーーああ、これが「本物」か。
主役のように大きく飾られた絵。額縁のなかでは、1輪の薔薇が初々しく咲いていた。見たこともないような、生まれたての桃色だった。
それと対照的に俺の絵は、大量の凡才のなかに……そのなかでも、いちばん隅に貼られていた。
誰も、俺の絵なんか見ていない。それなのに。
「これ、誰が書いたか知ってる?」
隅に貼られた小さな薔薇の絵を指さして、あいつは言った。
俺は知らないふりをして、さぁ、と首を振る。
「これが1番好き」
そう言って微笑んだあいつの横顔は、花が咲いたように綺麗で。
これが、あいつとの出会いだった。

そうだ、あいつからも花の香りがした。薔薇の香りだ。でもあいつのは、朝露に濡れた薔薇のつぼみのような、瑞々しい香りだったな。

あぁ、なんでこんなことを考えているんだ。隣にこんな美女がいて、高い酒を飲めて、何もかも満ち足りているはずなのに。
きっと酒が足りないに違いない。だからこんなことを思い出すんだ。もっと、もっと酔ってやろう。
俺は今、最高に満ち足りているはずなんだから


鋭い朝日が窓から差し込み、俺は目を覚ました。
深酒をしすぎたのか、頭がガンガンと痛む。
隣に目をやると、昨晩の女がキャミソール姿で眠っていた。朝日に照らし出された女の顔は、よく見ると大して美しくなかった。


2年ほど前、ちょうど、彼女と暮らし始めて半年くらいたったころ。俺は自分で絵を書くのを辞めて、有名な絵を模写する仕事を始めた。彼女との結婚資金を稼ぐためだった。

でも、今になって考えると、全ては運命への当てつけだったのかもしれない。
自分が感じることを描くだけで金が湧いてくる彼女に、俺は心底嫉妬していたのだ。それなのに、金にもならない俺の絵を「好き」だと言うあいつが、憎くて憎くて仕方なかった。
それに、描いても描いても、優しく微笑んでくれる母親は、決して戻って来ることはなかった。
だから辞めてやった。母親が、彼女が、好きだと言った俺の絵を。

性にあっていたのか、模写の仕事を始めてから、俺には次々と金が入るようになっていった。
暮らしの質が良くなるのと同時に、心が渇いていくのを感じていた。でも、俺はずっとそんな渇きを、見て見ぬふりしていた。
彼女よりも金を稼げるようになった頃。
今までの劣等感が爆発したかのように、俺は彼女への態度を変えていった。彼女の絵を馬鹿にしてみたり、綺麗な女と毎晩飲み歩いたり。

あるとき、ふと少しの罪悪感が湧いた。その日は彼女との記念日だった。気まぐれに彼女の笑顔を見たくなった俺は、絵を描いて彼女に渡した。彼女が好きだと言ってくれた、いつかの薔薇の絵を模写したものだった。
でも。
「つまんない絵」
彼女が口にしたのは、それだけだった。

それからのことはあまり覚えていない。
彼女はいつの間にか俺の前から居なくなっていて、俺は自由になった。好きな時に酒を飲めるし、好きなだけ綺麗な女を抱ける。
劣等感だって、もう感じなくていい。
ああ、なんて素晴らしい。俺は自由だ。何もかもから解放された。
俺はいま、最高に満ち足りているんだ。

そのはず、だった。


二日酔いを覚ますために、俺は散歩に出かけた。バーで出会った女には何も言わずに家を出てきた。
とくに当てもなくふらふら歩いていると、大きな駅に辿り着いた。
ーーー駅前の雑踏は、二日酔いの頭に響きそうだな。
来た道を戻ろうと視線を泳がせたとき、俺は目を見張った。

美しい、美しい絵を見た。
駅前の、大きな壁の一面に。
知っている。この絵を、俺は知っている。
こんな美しい絵を描けるのは、この世に一人しか居ない。
淀みのない、澄んだブルーで塗られた大空。
中心に大きく描かれていたのは、1羽のツバメ。
小さくも逞しいそのツバメは、遥か遠くに輝く太陽へ向かって、逞しく翼を羽ばたかせているところだった。
大きなツバメの前で、ちっぽけな俺はただ立ち尽くしていた。
ーーーああ、あいつは自由になったんだ。
羽ばたいて行ったんだ。どこか、遠くに。
あいつは、何も残していかなかった。
嫉妬も僻みも、痛みも苦しみも。
幸福や、愛情の日々すらも。

あいつの絵をみたとき、俺は、絵の仕事を辞めようと決めた。


俺は模写の仕事を辞めた。
安月給の町工場で、毎日汗だくで働いている。いい酒は飲めないし、綺麗な女はゴミでも見るような目で俺を見るようになった。
それでも俺は、毎日小さなボロアパートで、母親の写真に手を合わせて仕事に行く。
写真の隣には、小さな薔薇の絵を飾った。金にもならない、馬鹿みたいな俺の絵だ。
擦り切れたスニーカーに薄汚れた作業着を羽織って、俺は今日も仕事場へと向かう。
ふと、ツンと絵の具のにおいがした。手のひらを見ると、昨夜使った絵の具の汚れが残っていた。金にもならない絵を、俺の絵を、描いているのだ。
その時。
ふと、花の香りがした。朝露に濡れた薔薇のつぼみのような、みずみずしい香り。
驚いた俺は、勢いよく振り返った。振り向いたら、彼女が笑ってそこに立っているような気がした。
けれど、振り向いた先に彼女は居なかった。
代わりに、道端の家の庭で、小さな薔薇が朝露に濡れて咲きかけていた。見たこともない、初々しい桃色をしていた。
安心して、俺はふっと笑う。
絵の具で汚れた手の平を握りしめ、俺はまた歩き出した。






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