本を読んで考える001
僕は本を読んで考えます。考えるために本を読みます。
何のためでしょうか。今出来ることをやるためです
何のために生きているのでしょうか。分かりません。人生の設計は出来ません。明日、1分、1秒先に何が起こるか分かりません。そういう意味で刹那的に生きています。
幸福でありたいと思います。社会的評価は分かりません。
僕より頭の良い人は五万といます。それでも僕は日夜存在していて、考えています。
僕は今を存在するために、考えるのです。
インスタに投稿していた読書感想文を掲載させて頂きます。順不同。加筆します。
アドラー心理学の第一人者岸見一郎先生。成功と幸福は違うという話。とはいえ岸見先生の本は題材が違っても中身はさほど変わらない。
相手の考えを理解することと相手の考えに賛成することは違う。賛成出来なくても理解は可能だし、賛成する義務はない。
これはデカルトの言葉だが、「皆、誰しも良識=理性を持っているのに、私たちの意見が分かれるのは、ある人が別の人よりも理性があるためではなく、私たちが思考を異なる道筋で導いて、同じことを考察していないからだ。」
課題の分離と他者への貢献。大人として成熟するためには、自分の課題は自分で決めて取り組まなければならない。他者の課題に踏み入ってはならないし、自分の課題を他者に依存してはならない。承認欲求を満たされてきた人間は成熟出来ない。他者の言いなりに支配されてきた人間も成熟出来ない。未成熟な人間が運良く成功したとしても幸福では絶対にありえない。
他者の評価が悪いからといって自分の価値を貶めてはいけない。成熟した人間になるためには、自分の価値も自分で決めなければならない。他者に対して何が出来るかを考えることによって自分に価値を持つことが出来る。それは専ら自己の課題としてであって、やはり他者の課題に踏み入ることは出来ない。
しかし年老いたり、病気や怪我をするなどで体が不自由になってしまえば、何かをすることで貢献するこは出来なくなる。ここでまたデカルトを挟むと、「健康は紛れもなくこの世で最上の善であり、ほかのあらゆる善の基礎である。」
だから岸見先生は生きているだけでも価値はあると説く。
古代ギリシャ哲学から幸福論はポピュラーらしいですが、どうも現代に至るまで長い歴史上すっぽりと抜け落ちている感じがします。イェール大学ではケーガン先生の死の講義が大人気なのに、幸福が人々の関心をそれほど惹かないのは何故なんだろうか。
個人的には全体主義の悪行だと思っています。全体が幸福でなければ、いわば幸福と成功を同一視していて、全体の成功がなければ、個人は幸福であってはいけない。
三木清は、機嫌、丁寧、親切、寛大など、幸福は外に現れると言う。寛大とは、他者の考えが自分と違っていても理解するということ。得てして幸福は内面性だけではなく、外面性を備え他者との関係性に入ってくるので、幸福への希望も対人関係の中に発生する。幸せになる勇気とは社会参加することであり、社会の中にこそ多様な人それぞれの幸福が存在するということになる。
自由意志の人々の社会的営みの中に幸福が発生するとしたら、成功が幸福をもたらさないとしても、幸福の伝播が何らかの生産性を生み出せるようにも思えるし、成功をもたらす土台になり得るような気がして、それがアメリカン・ドリームだったんじゃなかろうかという、箸にも棒にもかからない推論を僕は獲得する。
いずれにしても、僕には行動する勇気が足りない。
#本 #読書 #哲学 #アドラー心理学 #成功ではなく幸福について語ろう #岸見一郎
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