頑張れる人にはわからない「頑張れない」に苦しむ瞬間。

頑張れないことなんてない、やればできる、気合だよ
こんな言葉を無数に浴びせかけられながら私たちは学校生活を送り、大人になっていく

分野の違いはあれずっとずっと頑張ってきた人は多いだろう。

自分もどちらかというとその部類だった。
いや誤解を恐れずにいえば間違いなくその部類だった

ではなぜこの表題の記事を書くに至るのだろうか

正直に言おう。私は「頑張れない」に苦しむようになったのだ。

頑張れない
そんなの気持ちの問題だ
甘えだ

多くの人はこういうだろう
しかし、本当に頑張れないのだ
やる気がわいてこない、辛い、悲しい
自分で自分の気持ちさえわからない
あまりに心が折れ、くじけすぎてしまい挑戦すること、頑張ること自体がトラウマで怖いのかもしれない

病気だ、病院に行けと言われるかもしれない
でも、今まで健康だった自分の親、親戚に対してちょっと昨日の夕ご飯が分からなくなって今日の日付が言えなかったからといって「認知症だよ、病院に行って」とあなたは果たして言えますかと聞いたら何人の人が「はい」と答えるのだろう。

心の体調が悪い人に簡単にそういう言葉を投げつけるのは親に認知症だよと言うのに等しい、私はそう思う

本題に戻ろう
頑張れなくなった人はでも頑張ろうともがく。
なんとかして頑張りたい
今まで頑張ってきてるから頑張ることの大切さも重要さも知っているのだ
でも、なぜか頑張れない。
その辛さと絶望感といったらはかりしれないものがある

本屋で啓発本、ストレス大全みたいな本、なんだか表紙に魅かれる本を手に取ってパラパラ開いてみる
有益なアドバイスもいくつかあるが多くは、そんなことわかってるよ、これに自分の労働の対価としての金銭を払うのかという気分にさせられる

そういう日々の繰り返しだ
そして夜ひたすらもがき苦しみ眠れず朝が来る
何もできなかった一日が終わるのだ。

おそらく、頑張れる人生を歩んできた人はもうこのノートを途中で読むのをやめているだろう(そうでない読者には感謝の念に堪えない)
でもきっとここまで読んでいただいた方は全てでないにしろ少なからずうんうんと共感していただけたのではないだろうか

頑張れないは帰属意識がないところから始まるような気がしている
自分は世の中で一人ぼっちだ
誰も見ていてくれない
そんなところから始まってだんだん頑張っても何になるのかわからなくなってくる
でも決して怠けたいわけではないのだ
そうこうやって私も文章をしたためられるように。

私はまだ頑張れない人間からあまり脱却できていない
周りの人は頑張っていると言ってくれる
でも、それはちがう
そう見えているだけ、もしくはうまくそう見せているだけだ

でも帰属意識と責任が生じた時、なんだか力がわいてくる、やる気が満ち溢れる瞬間がある
その時は確かに頑張ったな自分と言えるのだ

コロナはもしかしたら意外と頑張ってきた人たちが「頑張れなくなっている」そんな状況を生んでいるのではないだろうか
自己の経験からそう危惧している

こんなノートが何の役に立つかはわからない
でも、頑張れないこと、それを100%受け止めて肯定するそんな文章が世の中にあるといいなと思い、書いてみた。
そして帰属意識がもしかしたらあなたを救う、私を救うかもしれない。
その帰属意識はもしかしたらこのノートを通じて生まれるかもしれない。
そんな淡い期待も込めて、一旦筆を置こうと思う。


自分で書いておいてなんだが、読み返すと公開を躊躇いそうである
なのであえてこのまま公開しようと思う
日本語は不得手ではないとは自負しているが、誤謬については目を瞑っていただけると幸いである。

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