キリスト教について考えてみようかな。

社会学者の橋爪大三郎さんが出演されていたあるポッドキャストでの言葉は、今の自分の思考に新たなスポットライトをあてた。

哲学とは、
理性と言葉を使って思考を戦わせる。
それは、キリスト教の二次創作(スピンオフ)。キリスト教が分からないと哲学が分からない。

ルターの宗教改革から啓蒙思想への説明の際に言われたコメントであるが、現代の哲学は、キリスト教的な理性的なものをよりアカデミックな場で行ったものがその始まりと、ここでは語られていた。

これは、神を崇拝する行為、と、理性により自然
を解明していく、という人間の行為が重なった瞬間で、そもそもの根源、(特に自分が生きて生活している時代と場所は、完全に西洋の文化、資本主義経済の中にあるので) 今ここにいる私においては、確実にキリスト教的なものの中にいるのではないかと考えさせられるものであった。

同時に読んでいたインタラクティブ・マインド(桂英史著) 、という情報メディアが何であるかということを、図書館の誕生から考えている論考では、図書館が近代の理性から誕生し、図書館における秩序を解き明かしていくことで、現代におけるソフトウェアウェアを検証していくものであるが、ここからも、共通する視点が見てとれた。

そこでは、冒頭の章で下記のように述べられていた。
神の崇高さを手に入れたいという欲望が、
近代理性では、知識を手に入れて、それを秩序立てて並べていきたいという欲望に変わる。

信仰と理性が違うとすれば、
キリスト教と哲学は違うと言えるかもしれないが、根本的なところでは、(だいぶざっくりとした言い方になるが) 我々は、この世界がどうなってるのか?というのとを解き明かしたい好奇心的な欲望によって日々動いているといえる。とすれば、宗教や哲学はその根源は共通していて、そのあり方、場所、プレイヤーが、その時代ごとにゲームチェンジして変わっていっているだけではないか、と考えられる。

理性、というものの見方についての新たな見方を得ることができた。

キリスト教の中にあるロジックを探る→現代の資本主義社会や、テクノロジーの発展を考える根本が見つかる?

いつも、こうして新しいものの見方を示唆してくれる、本や、今の音声メディアは、自身の知見を広げるきっかけとなり、楽しいな、とつくづく感じる今日この頃である。


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