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親子間の「無償の愛」


親子間の無償の愛とは、親が自分を犠牲にしてまで子に施すことなのだろうか。その犠牲こそ子のためであることを喜べることなのだろうか。


人に読んでもらうためのnoteなのに最近自分の話ばかりしてしまって申し訳ないと思っているけれど、どうしても記しておきたい記憶があった。


私は昔から、家族が大大大好き!というタイプではない。
私の友達には、家族のことが大好きでSNSや私との会話にもよく家族の話が出てき、所謂何でも話せる"友達家族"を持つ子が多かった。
私はその話を聞くたびいつも驚かされていた。
当時の私には家族はうざったいものであったし、なんでも話せるなんて言語両断で、彼氏ができても友達と喧嘩してもその話を家族に話すなんてことはしなかった。

だから別に家族とは仲悪くはないけれど、良いものでもないと思っていた。


しかし今、1人過ごすことが増えてからふと思い出すのは、家族の楽しい思い出ばかりだった。

その時は悪いことばかりでも、いい思い出たちばかりが残るのは本当は心から好きだった証拠なんだろうなと思う。例えば元彼は付き合っている当時は楽しいことばかりでも、別れてからは嫌な思い出ばかり残っているから本当に好きじゃなかったんだと思う(笑)

特に記憶に残るのは父の事。


昔、父親に母親がいないところで「お母さんのご飯よりお父さんのご飯の方がおいしい」と言ったことがある。
父は料理好きで、休日の夜ご飯はよく父親が振る舞ってくれていた。母も父のご飯が大好きで、「しろも料理好きの人と結婚するのよ」なんてよく言われていた。

でもその時、父親はこう言った

「お父さんは好き勝手好きな食材で料理するからシロが好きな味になるだけだよ。お母さんは毎日、シロの栄養を考えたり家計のことを考えながら料理してくれるんだから、本当にすごいのはお母さんだよ」

ちょっと、今思うと、こんな言葉を子に投げかけてあげられる父親は相当少ないのでは、と思う。

私の父親は昭和の九州という無法地帯そのものである環境を生きてきた人だ。中学の頃から喧嘩に明け暮れ、高校の頃は伝説の問題児だったらしい。(伝説の問題児?って感じだけれど、父がそういうのだからそのまま引用させてもらう)祖母はしょっちゅう高校に呼び出されていたらしい。

そこですごいのはね、と母が話してくれた。
「おばあちゃん、学校に行って謝りはするけどお父さんのこと一切怒ったりしなかったのよ」


私の母はその話を"すごい"と伝えてくれただけで、多分良いとは思っていない気がする。実際、私の祖母は高校で息子に甘い母だと有名だったらしい。

だけど父は先述した通りの、立派な男に育ったと思う。

私の父のすごいところは、物事を全て自分の目で見ていることだ。幼い頃、私が路上で眠るホームレスの人々に心を痛めて、お年玉でもらったお金をあげたいと言い出したことがある。その時父は、お金では無くて水にしなさいといった。お金はもしかしたら誰か他の人(ホームレスではない通行人など)に取られてしまうかもしれないから、本当にその人に役に立つ水にしなさいと。
わからないけど、普通なら弱きに何かを与えたいと思った子に感動してそんなことまでに頭が回らないか、むしろ、関わらない方がいいと言う人もいるだろう。
けど父は私の発案を、弱きに何かを与えたい行為などと大袈裟に受け取ってはいなかっただろう。

困っている人に手を差し伸べる。
そんなごく当たり前の行為だと思っていたんじゃないだろうか。


父がそんな風にまっすぐに育ったのはなぜだろうと思った時に、私は祖母の影響でしかあり得ないと思った。
きっと祖母はただ息子に甘かったんじゃない。ルールや決まりなどと言ったフィルターを通して息子を見ていなかっただけだと思う。

そう感じて、もう少しボケてしまっている祖母に問いかけたことがある。
おばあちゃんはどうしてお父さんをあんまり叱らなかったの?
するとおばあちゃんは
「ルールを破って怒られるのは社会に生きる者として当然のことだから、それは学校ですればいいこと。でも家庭は、社会じゃないからね」
とゆっくり言った。

親子間の無償の愛って、俗に言う親が自分を犠牲にしてまで子に施すことでは無くて、ルールや決まりや偏見といったフィルターを通さずに子を理解してあげようと努める心なんじゃないのかな、と、一回り大人になった私は、過去の記憶を反芻しながら思ったのである。

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