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ヨガ・マスター、ディディとの毎日。気づきとかハプニングとか周波数とか。

PhotoBy #expedicionario76

一昨日、まるでハプニングの様に出会ったディディ(サンスクリット語でシスターの意味の名前です。ヨガの先生の通称としても使われています)と
偶然と必然の隙間みたいな時間を沢山過ごしています。
一個一個、ここに書きだしていければいいのだけど、もの凄く長大になってしまうのは必至なので、流石に書き出せません。
毎朝のモーニングノートには3ページ丸々使う勢いで瞠目驚嘆感激の一つ一つを言葉にしています。

友人のファトシュが招聘したディディですが
普通に考えたら、私はファトシュとシュレが主催する、Cappadocia Yogaグループの今日のヨガ・セッションでディディのワークショップに参加して、参加者の一人として、彼女の深い話やマントラに感激して、わあ、ありがとうございました!って言って終わっていく関係だったはず。

それが、なんと言うか彼女のカッパドキア滞在期間中、なんだかんだと毎日彼女と過ごしています。明朝も一緒に野外で夜明けの瞑想です。
ナタリアが存在してくれていたことが一番大きいんだけど
(だいたいがナタリアと一緒に居ると、次から次へとハプニングが続くので
もう、何が起きても驚かない、と決めているのに、それでも現実に目の前にそれが現れると、やっぱりちゃんと驚いちゃう自分がいます…。)
とにかくディディと話せば話すほど、自分の中の何かが変わっていくのが分かります。なんて言うのか、今まで、薄っすらと考えていたことが明確なビジョンになって、そして明らかな「確信」に変わっていきます。と、言うか変わりました。

今日のセッションで、気球の中で私が勇気づけられたハミングはマントラだったんだと分かりました。
なんて心が鎮まる声なんだろうと、あんなにバーナーの音が煩い中でディディの声だけがしっかりと私に届いていたのは、マントラの響きだったからなんだと分かりました。

さっき、YouTubeでいつもフォローしてるMOMOYOさんの動画を見ていたら、また、ディディの存在の一面で、私に響いていた側面にも気づきました。FBでMOMOYOさんの動画をシェアしながら、こんなコメントを付けました。

タイミングが良すぎるわ。
FitがBenefitって事なんでしょうね。
今日、とあるヨガマスターのセッションに参加しました。
どこまでもチャーミングな女性で、染み入る様な声で喋ります。
彼女は既にビーガンとして暮らしているので、セッションに参加してくれたことを彼女に感謝するために豪華な食事にお招きすることも出来ません。質素で美しい服を纏ってギターを持ってやってきました。
私たちの仲間の家に滞在して、そして、また別の町へ移っていきます。Postがあった場所へ行くのだ、と言っていました。
セッションに参加した人が少しずつお金を集めて、彼女に渡しましたが、おそらく移動費くらいにしかなっていません。
でも彼女は全く心配な様子も不安な様子もなく、流れる様に別の町へと移っていくのです。
アルゼンチン人でした、トルコへは初めてやってきました。日本にも韓国にもロシアにも住んだことがあると言っていました。家すらありません。導かれるようにただ彼女は彼女の「任務」を彼女らしく愛を持ってやっているだけなのです。
自分らしくあれば何も怖がることはない、と、そう言う生き方は既に現実にあるんだな、と思ったところに今日のMOMOYOさんの動画でした。
一方で、友人が働く気球会社へは世界中のインフルエンサーからアクセスがあります。
Youtuberやインスタグラマーやブロガーです。彼らは無料で気球に乗る為にアクセスしてくるわけですが、私の友人は、彼ら彼女らに無料チケットを渡すかどうかを毎日精査するのが仕事です。彼ら彼女らは、当然現地の宿泊も無料で泊めてくれるホテルに泊まります。影響力がある、と言うことはお金とは関係なく生きる方法になってきています。
そして、それを許すかどうかを判断する私の友人も彼らのツールが本当に彼ららしく、ちゃんと人々に伝わるものであるかを「判断」してるんです。
ヨガマスターの彼女と、インフルエンサーはこの世界の両極の様でいて、しかし、同じ「自分らしい影響力」があるかないかだけで、お金の介在しない世界を生きる力を身に着けています。
世界が変わる、と言われていますが、違います。
もう変わってしまっているんです。私たちはもう、この現実を既に生きているんです。

世界が変わり始めている、とか、ずっと言い続けてきましたが
既に変わってしまっている事を目の前の現実が知らせてくれています。

彼女から、サンスクリット語の新しい名前が欲しいか、と尋ねられました。

以前、私は、何も考えずに自分にムスリム名を付けました。
便宜上必要だから仕方なく付けるのだ、と思って付けた名前です。
しかし、その名前で呼ばれる事自体は拒否してきました

今日のセッションの中で、ディディが自分の名前、サンスクリット語の名前の意味について説明してくれました。そして、新しい名前が何故必要なのか、を語ってくれました。
生まれた時に親が付けてくれた名前は、それは希望であり、祝福であり、そして呪いです。
私がYOKOと呼ばれている限り、私はいつでも母の娘であり、7歳だったYOKOであり、あれもしでかしたそれもやらかした、自分で自分をジャッジして、自分を縛って決めつけて右往左往したYOKOであることを、無意識のうちに喚起させられるのです。
でも、もし、私が自分に新しくサンスクリット語で「自分を信じる」と言う名前を付けたとします。
そうすると、私はその名前で呼ばれるたびに「自分を信じよう」と無意識のうちに自分の中心に戻って来ることが出来る様になるんだと思います。

「便宜上」と言ってつけた名前を拒否してきた理由が今日、物凄くクリアに理解出来ました。私は、その名前は「便宜上」周囲に合わせて自分を殺してきた姿勢そのままを嫌っていたのです。
その名前で呼ばれると、私はいつも自分でない何かとして扱われている様に感じてしまっていたんだと思います。

ああ、そうか、と。

今回、ディディの滞在中に、もし、機会と私のスピリットが合致したら
私はディディから、新しいサンスクリット語の名前を欲しいと伝えると思います。新しい祝福を自分に与えるために。

全ての友人たちに健康と幸運を!

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