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世界はもともと、多様にできている


多様性ってなんだろう。

むかし、「人間も動物も植物も、全ての命は、ずっと昔を辿れば、海の中のプランクトンのような小さな浮遊物(?)から生まれた」と知ったとき、わけがわからなかった。でも確かに、この地球も太陽も、もともとは宇宙のチリだったということを考えてみれば、私たちも海の中のチリだったのかもしれない。と、ほんの少しだけ納得がいく。そこまで想像がぶっ飛ぶと、本能的に「気持ちわるい」と拒否感を持ってしまうゴキブリに対しても、「もともとは同じプランクトンだったのかなぁ」とちょっと優しい気持ちにさえなれてしまう。


海に潜ると、みたことのない生き物たちが沢山いる。
どうして、小さな小さな浮遊物から、いろんな形や色や動きのするいのちが生まれたのか。人間という一つの種類をとってみても、生物学的にも社会学的にも違うし、ひとりひとりをみても明らかに異なっている。なぜ、異なりが生まれたのか。よく、「種として生き残るために違いが必要だった」というけれど、じゃあどうして、そもそも生き残る必要があるの?どんな星にも寿命があって、いつかは無くなるのに。


ここまで考えて、行き詰まる。
だから逆にいうと、自然には、ゴールはないんじゃないか?と思い至る。
「どうして生きる必要があるのか?」という問いに対する答えはない。


「なぜ生きるのか」
私は個人的に、その問いが出てきている背景には、人間社会における「生きづらさ」が多少なりとも関係しているのではないか、と思う。生きるのが苦しいと思うから、「どうして生きる必要があるのか、生きないといけないのか」と考える。生きる意味を問うこと自体を否定しているわけではないけれど。例えば、生きるのが苦しい状況の中で「生きる意味」を問い詰めるのはとても苦しい作業だと思う。もしも「生きることそれ自体が喜び」であれば、その問いは生まれないかもしれない。


自然に囲まれて生活しているからなのか、こんなことをぐるぐると考える時間が増えた。


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今朝、尼崎の藤本さんのnoteを読んだ。

私は藤本さん(藤本さんとその周りの方々、プロジェクトや尼崎という場所も含む)と関わらせてもらう中でいろんなことを教わり、自分自身が変わっていく経験をさせていただいた。そのうちの一つが「多様性」だと思う。

それは主に、「ミーツ・ザ・福祉(通称:ミーツ)」というプロジェクトを通して。ミーツは、しょうがいのある人と一緒にみんなが楽しめるフェスをつくるというもの。たまたま2018年のミーツにふらっと立ち寄り、感動した(結果的に自分の行動や世界も変容した)ことがきっかけで、翌年のミーツの運営に関わらせていただいた。


「いろんな人」と口にするとき、その「いろんな」で想像できている色々な人は、今までの自分の人生の中で出会ってきた人で構成されている。世界というのは結局、自分の中での世界でしかないということに愕然とするけれど、それならば、「出会ったことのない人に出会える」ということや「ある人の知らなかった側面に出会うこと(出会い直すこと)」によって、自らの世界は更新されていく。その更新の瞬間が、私にとってとても感動的だった。

一方で、それ(感動)を追求するあまり、きつく問うたりして暴力的になってしまうかもしれないし、無意識に誰かを傷つけているかもしれない。安心感を感じてもらえることの大切さ、それが前提だということ。だから、場をひらく立場にある時は、大切にしたいことを守るために厳しい判断が必要な時もある。そういうことも、藤本さんから学ばせてもらったし、実践を通して経験もした。自分が一秒単位で生まれ変わるように感じる時や、ものすごく深呼吸できる時もあれば、自分の無力さや嫌なところを見てとても落ち込む時もある。これからもきっとある。それが世界と向き合うということなのかもしれないと思った。



数学者の岡潔さんが、前向きとは「過去を背負い、現在をふんまえて、見えない未来に面して立つこと」だと言っていた。私はこの表現がとても好きだ。そして、「向き合う」ことは、「前向き」だと思う。


ちょうど自分にとって苦しい時期に出会ったのも、岡さんの言葉だった。
それは、「主宰性」という言葉だ。私は、この「主宰性」が多様性を考えるキーになると感じたので、掘り下げてみたい。

全身の夥しい細胞が、絶えず変わりつつ、ひとつの肉体を形作って維持している。そこには、「主宰性」が働いているはずですね。主催するものがなく、めいめいの細胞がバラバラに活動したのでは、一個のまとまった肉体を維持し続けることはとうていできないでしょう。だから、肉体があるということは、主宰性が働いているということです。(森田真生『数学する人生』p36)

確かに、人間の体は数十兆個の細胞と100兆を超える細菌でできていて、ひとつの「わたし」や「あなた」の体をつくっている。細胞や菌、それぞれはバラバラの存在なのに、わたしたちの体が突然バラバラになったりしないのはなぜだろう。なぜ人間という単位で統制が取れているのか、とても不思議だ。


岡さんによると、その主宰性は、人間の意思や知力を超えているという。例えば、私たちは口からものを食べる時には自分の意思を働かせて好きなものを食べることができるが、その後、食べたものをコントロールすることはできない。食べたものがどんな風に消化されるのか分からない。だから、人間の意識のもっと深いところで別の力が働いているとしか考えられない。そういう力のことを「主宰性」と呼んでいる。そして、そういう主宰性が人間だけではなく、動物にも植物にも働いているのだと、岡さんは言っている。


この主宰性が、「多様性」のキーワードになる。
主宰というと、なんとなく統一的とか集権的のようなイメージを私は持っていた。しかし世界は、多様であればあるほど、主宰性は豊かになっていくという風にできている。


主宰者は宇宙を直接主宰しているのではなく、生物にいちいち自治の自由を与えて、自らを治めさせることで、結局全体を主宰している。こんなふうなやり方で宇宙が主宰されているから、春の野にはすみれもあれば、たんぽぽもあれば、れんげもある。直接主宰者が主宰したらそうはならない。このような豊かな自然が出てくるためには、自治を与えて主宰するというやり方しかない。(同上p49)

存在しているものを全て統一・均一にしたほうが主宰しやすそうなのに、私たちが今生きている世界は、それぞれの存在に主宰性を預けて多様(豊か)にし、それらをつなぎ合わせることで成り立っている。


「主宰性」とは何か

私が「主宰性」という言葉にとても救われたのは、「私にも(ひとつのいのちとして)主宰性が備わっているのだ」と思えたからだ。「能動的」とか「主体的」はどちらかというと後天的なものだと思う。その人が意思を持って、獲得していっているイメージ。意識的に頑張っているイメージ。だけど、「主宰性」は「もう、今、ここにある」し「もともとある」し、「みんなが共通して持っている」。主宰性があることはみんなに共通しているのに、その性質は一人一人違う。一人一人違うのに、みんなに共通している。

このことにとても希望を感じたし、感覚的なものを「主宰性」という言葉を使って断定してくれた岡さんの姿勢に、魂が震える感じがした。

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先ほどの藤本さんのnoteで書かれている問いに対して一部、今の私なりに応えてみたい(答えは分からないので、反応するという意味での「応える」です)

藤本さんの問い:
わたしであり、あなたであるということを認め、共有するために、そして多様な人々(やそれ以外)とともに取り組んでいくために、自分たちにはなにができるのだろうか。どのくらいの距離感で関わり、どのくらいの距離感で関わらないようにすればよいのか。
「無関心」と「不寛容」が際限なく広がっていく社会の中で、それでも楽しく関心を持ち続け、自分と相手を許し続けるために、どのようなことが必要なのだろうか。



私は「主宰性」は大きなヒントなのではないかなと思う。

「ひとりひとり(人間以外の動物、植物も)に、主宰性がある。そして、その主宰性というのは、人の意識を超えたところでつながり合っている。」


どう考えても、世界はもともと多様にできている。多様だからこそ、どんなものであっても根本的につながっている。だから、「多様(異なり)」と「つながり」は表裏一体なのだ。「つながり」を思い出し、そこに意識を向けるための営みが必要なのではないか。




これを踏まえた上で、今の私の問い

人間は「主宰性」の感覚をどうしたら取り戻せるのだろう?
(「多様性」は「つながり」を前提としている。それを結びつけているのが主宰性という概念で表せるとしたら、それを意識し、大切にすることが、「多様な世界」で生きていく上で重要だと思う。その感覚をどうしたら育めるか。)
そして、「生きることそれ自体が喜び」となる世界をつくるために、私たちは何ができるのだろうか?(人間は他の生き物と比べて「時間の感覚」が強烈にある。だからこそ、過去に対する悲しみや後悔、未来に対する不安や絶望が生まれる。そうはいっても、その時間の感覚は人類が生きていくために獲得した能力なのだと思う。それに苦しみすぎずに、「いま生きていること」をそれ自体をもっと大切にできないか?)



全体的に抽象的すぎるなと思うから、もっと現場を見ていきたい。

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