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小説と貧しさと人殺しの話

 小説を書こうと思ったのは、大学三年の春とか、そんな頃だった。

 特に不自由な暮らしをしていたわけではなかったけれど、あまりお金を書けない趣味も見つけたいな、なんてことを考えた。僕は半端に勉強ばかりしていたし大学でも沢山レポートを書いていたので、きっと言葉は得意だろう。そんな浅ましい理由から物語を書く事にした。しかしいざ書いてみると、筋の通ったストーリーをひとつ最後まで書ききることすら実に難しかった。だからこそ、僕は自分が思っていたよりも多くの時間をこの趣味に費やした。
 上手く書けないと悔しくて、上手く書けると嬉しい。そんな当たり前を自分なりに楽しんでいた。

 一年ほど経ったある日、物書き志望の人達のための親睦会に参加した。インターネットで募集を見かけて、何となく気が向いたのでエントリーした。僕は文芸部じゃない。それに近いサークルに参加しているわけでもない。そもそも友人に文章を書いていることなんて話していない。だから、少しくらいは文章を書く他人との繋がりが欲しかったし、そういう人たちの話を聞きたかった。純粋に興味があった。

 結論から言うと、全然楽しくなかった。

 何が楽しくなかったか、と訊かれると答えは両手の指じゃ足りないのだけれど、一番は参加していた人たちの人間性に問題があったことだった。
 自分で自分の首を絞めるような話なんだけど、絵や音楽と違って、文章を書き始めるのに特別な技能はほとんど必要ない。だから誰でも始められる。
 なのに、一目では評価が難しい。だから誰でも天狗になれる。
 自分を表現したい奴の殆どが、普通の人間よりも高い自己顕示欲を持っている。この文章はこういう思いで書きましたとか、俺はこういう文章が正しいと思うんだよねとか、興味の無い人にとってはどうでもいい自慢を延々と語ってくる。彼らはたぶん相手に合わせて話す能力が著しく欠如していて、その分マスターベーションがとても上手だった。
 こっそりその人をハンドルネームから調べてみると、声が大きい人間ほどロクでもない小説を書いていた。だから余計に気分を害した。

 何も成し得ていない人間が、どうして講釈を垂れるのだろう。
 ポテトフライをつまみながら、僕はぼんやりそう思った。

 それなのにとても不思議なことに、二次会に行く流れになるとほとんど皆がそれに向かった。きっと彼らは自分たちの自慢にまだ満足できていないんだろうな、と失礼な予想を立てて、僕はその場を離れることにした。
 二度と行かないだろう、なんてことを思いつつ、離れていく喧騒をよそに店の外で帰りの電車を調べていた。

 そこで僕は、自分のほかにもう一人だけ一次会で帰っている女の子がいることに気付いた。

 特に印象に残っていた子だった。彼女は僕と同様、一次会の途中でもずっとつまらなさそうにしていた。近い席に座ることは最後までなかったが、終盤はお互いに端っこで食べ物をつまむだけの状態だったから、少しシンパシーを感じていた。


 最悪、最悪、と彼女は何度も呟いていた。

「せっかく高いお金を払って、何かためになる事聞けるかもしれないって思ったのに、最悪、二度と行かない」

 その時の僕はまだ、彼女の「高い金」は僕の考えるそれよりも重みのある言葉だということを知らなかった。

 彼女に声をかけ、お金は出すからと別の店に向かった。
 何となく似たもの同士なのかと期待したし、それ以前に早く飲み直したかった。そうしなければ、一次会で抱えた不快感で窒息してしまいそうだった。
 少し渋々ながらも、奢りならと彼女は着いてきてくれた。

 僕は先ほどの人たちを反面教師にして、決して自分の書いた文章の話とか、創作論とか、そういう鼻に着く類の話はなるべくしないように心掛けた。
 代わりに互いの好きな作品について話すことにした。
 これが功を奏し、思ったよりも会話が弾んだ。彼女は本を読むのも同じくらい好きだったようだ。子供の頃にハマった小説とか、最近良かった有名じゃない本とか、そういう話題で沢山話した。

 一次会に居た人間はもちろん全員が文章を書くことが好きな人間だったけど、読むのを好きな人間は意外と多くなかった。やっぱり、彼らが好きなのは文章じゃなくて、文章を書く自分自身なのだと思う、きっと。
 だからこそ、それまでずっと死んだようにしていた目を輝かせて話す彼女の姿には、少し好感が持てた。

「アカバネくんは、色んなこと知ってて、すごいね」

アカバネくんというのは僕のハンドルネームだった。『アカバネ・タマキ』、もちろん本名ではない。好きな物語の主人公の名前を付けただけ。
 彼女の名前は『みさきめい』、もちろんこれも本名ではないのだろうけど。

「限定的なことだけだよ。大学で学んだ分野だけちょっと詳しいから、それ関連の話ばかり読み書きしてる」
「そっか、大学か……大学生なんだ」
「みさきさんも学生?」
「……仕事してる」
「社会人だったんだ」

 彼女は自分よりも2,3は年下だと思っていたので驚いた。
 実際には彼女はまだ20で、予想通り僕より年下であることが判明するのだけれど、この時の僕は高慢にも全ての人間が大学を卒業してから仕事に就くのだと錯覚していた。文章を書くような人間なら尚更そうだと思っていた。

 それから僕らは解散した。家に帰った僕は、SNSの連絡先を交換してくれた彼女の小説ページを開く。そういえば彼女がどんな文章を書いているか訊いていないな、と思いながら、その執筆作品を試しに読んでみることにした。

 

 モノが違った。


 僕は彼女の文章に衝撃を受けた。

 端的に言えば……彼女の文章は、乱暴だった。言葉が乱れていた。論理的じゃなかった。それなのにとても魅せられた。そこで僕は、きっとこういう才能の前では言葉の丁寧さなんてノイズでしかない邪魔なものなんだと気付いて、普段そういったものばかりにとらわれている自分を恥じた。けれど同時に、自分はここには永遠にたどり着けないのだから、そうするしかなかったのだとも理解した。
 とても不思議な体験だった。美しく見える彼女の一文を何度か読み返してみると、それは文法的な誤りがあったり、言葉の誤用があったりする。けれど、それを他のどんな言葉に置換したところで元の美しさを保つことはできない。その文字は日本語としては正しくないはずなのに、何故か彼女の組み立て方だけがあるべき形であるように見える、そんな文章。自分の知らない別の言語体系のもとで一番正しい文章を組み立て続けているような、そんな錯覚を覚えた。
 日本語としてはろくでもなかった。
 小説としてはこの上なかった。

 この日、僕は自分の陳腐な文章にある種の絶望と諦めを覚えた。
 そして、一人の誰も知らない作家のファンになった。

『もっとあなたの文章が読みたいです』

 人生で初めて送ったファンレターだった。

 それから何度かみさきさんと会い、彼女と物語の話をした。彼女の好きだと言った作品はすべて読んだ。知ったところで真似できるわけではないけれど、彼女のルーツがどんな物語なのか知っておきたかった。でも、彼女自身の文章を象徴するような作品にはいつまでもたどり着けなかった。どれもほんの少しくらいは似ていた。けれど、彼女が嬉しそうに話している割に、彼女の物語にそれほど反映されているようには思えなかった。
 

「そういえば……アカバネくんの書いた文章、読んだよ」
 ある日、みさきさんに初めてそう言われた。

 僕は内心ビクビクしていた。心の準備をする時間が欲しかった。それなのに、彼女はそのまま淡々と感想を話した。
「良かった。しっかりしてた。嫉妬するくらいに」
 そんな言葉が飛んできたものだから、呆気にとられた。馬鹿にしてるのかな、とさえ思った。
「本気で言ってるの?」
 少しだけ苛立った調子で僕が問いかける。失敗したな、と一瞬後悔したが、すぐにその感情は消える。驚いたことに、彼女が僕の何倍も怒りに震えていた。
「あなたこそ、あたしをバカにしてるの?」

 そんなバカな。
 彼女は本気で僕の書いた文章を評価しているらしかった。

「あたしには、あんな文章書けない」
「そりゃそうでしょ。僕にもみさきさんみたいな文章は書けないよ」
「わかってない、そういうことじゃ……ないの……!」

 みさきさんのことを、僕は何も知らなかった。


 真っ当な文章が書けないことが、彼女のコンプレックスだった。
 彼女のあの崩れた構文や独特な語彙はわざとなのかと思っていたのだけれど、どうやら彼女の中ではそうではないらしい。

「あれしか書けないの」

 彼女は中学を卒業してから五年間、ほとんど何の文章も書いていなかったと言った。
 それは本当に文字通りの意味だった。学校に行ってないからノートも取ってないし、生活のための様々な書類のため以外でボールペンを手に取ることはなかったらしい。

 それならどうして文章を書き始めたのか、と僕は訊いた。
 彼女は小学校の頃からの話をしてくれた。

「父親は離婚していて、母親は夜遅くまで遊ぶことが多かったんだ」

「あたしにとっては……物語だけが友達だった。家に帰っても誰も居なくて、母親が夜ごはんのための500円玉を一枚だけ置いてた。それで400円で食べ物を買って、残りの100円で古本屋に行って本を買った。漫画なんて買っても20分しか時間を潰せなかった。けど、小説は3時間以上潰せた。だからそっちを買うしかなかった。小学校の時のあたしの放課後の記憶は、あの冷たい菓子パンと剥がしづらいシールの貼られた小説くらいしかなかった」

「文章しかなかったの、あたしには。お母さんはあたしが中学に上がる頃に体調を崩して、あたしは家で寝たきりのあの人の事が心配だから遊びになんて行けるわけなくて、中学校では部活にも入らず友達もろくにできず、放課後は毎日家に直帰して親の面倒を見て、その時間つぶしにやっぱり本を読んでた。毎日が惨めで苦しくて仕方が無かったけど、本を読んでいる間だけはそこから逃げることができてた」

「お母さんはあたしが早く帰ってこないと凄く怒って文句を言う人だった。世話をしても褒められることなんて一度も無かった。皮肉よね、小学校の時はあたしのために帰ってきてくれたこともなかったのに。授業参観に来てくれたことさえなかったのに。そんなお母さんが中学を卒業する前に死んだ」

「中学を卒業した後すぐに働いて、帰りは遅くて、仕事先では学が無いってみんなにいびられて、家に帰っても一人で、仏壇に手を合わせるとまた孤独を感じて寂しくなって、あたしの人生は幸せにならないようにできているんだって、毎日毎日思って……何年経っただろう? 同い年の子たちが大学に入って、コンパとかして、楽しそうな姿を見ると、なんだかあたしだけ玉手箱を開けてしまったのかな、みたいに錯覚しちゃう。中学生の頃からずっとくたびれた顔をしてたのにね」

「それでも休日には本を読んでた。その時間だけはこんな世界から、そしてくたびれたあたし自身から目を背けることができた。誰一人、頼れる人間なんていない。家族さえなくなったあたしの拠り所なんて、もうそれしか残されてなかった。なけなしの給料で買えるのは古本くらいだったし、エアコンのない家よりも図書館の方がよほど生きやすかったから」

「いつしか、物語を書こうと思った。世の中には『これはあたし自身だ』と思うくらい自分に突き刺さる本があって、あたしはそういったものに何度も救われてきた。けれどやっぱり、そんなものは決して多くはなくて……だから、あたし自身が創ればいいんじゃないかって思った。自分の欲しいものを一番よく知っているのは、きっと自分自身だと思ったから。けど実際にはそんなにうまく行かず、一文書くだけでも泣きそうな思いをした。こんな気持ちになるなら、もっと国語の勉強をしてればよかったと思った。高校に行けば良かったと思った。全部あとの祭りだ。ていうか、そもそも無理だったね」

「それでも物語にだけは真摯でありたい……そう思って、試しに文章を書いている人たちの親睦会にでも行ってみようと思った。けど、それは絶望しか生まなかった。あたしが弱い人の味方だと思っていた小説は、実は豊かな人間達がただ自分の価値を誇示するための道具として使われていることに気付いた。すごく気分が悪かった」

「あなたは確かに、そんな人たちとは違った。あなたの話や書いてる文章はちゃんと物語に誠実だった。けど、あたしとは違っていた。真逆だった」

 端的に言えば、僕の文章は彼女にとって『正しすぎた』のだ。

「あなたの文章を見るたび、惨めで仕方がなくなるの。ああ、この人はちゃんと正しい家庭に生まれて、正しい教育を受けて、みんなに褒められるような正しい言葉遣いで文章を書いてるって、そう思うの。こっちのほうが正しくて、あたしの文章は間違ってるんだって、そう思うの」

 そこで僕は、ほんの少し正しいだけの僕の文章が彼女にとってどれだけ求めても手に入らないものであるということを知ってしまった。

「どうして、キラキラした空想の物語って……あたしみたいに何もなくて、現実が辛い人間の味方のはずなのに、あなたみたいに現実が恵まれた人間の方が上手く書ける仕組みになってるの?」

「だから……あなたみたいな幸せな人間が、切実じゃない人が、現実から逃げる必要が無い人間が……あたしのたった一つの拠り所を奪わないでよ。これ以上あたしを、惨めにしないでよ……」


 あなたといると惨めになる。その頃からの彼女の口癖だった。

 すぐ感情的になって、泣いて、人を僻んで、それから何故かすぐにごめんなさいと謝る。
 まるで彼女自身の文章みたいだな、と思った。同時にそれが、彼女が文章に自分の全てを注いでいる疑いようのない証拠だと思った。
 それはかつての親睦会に居た彼らみたいな陳腐な自己顕示じゃない。それしか持たぬ少女が文字通り『全てを賭けていた』文章だった。僕はきっと、そんな部分に魅せられていたのだ。


 それからしばらくして、僕はみさきと付き合った。驚いたことに、みさきは本当にみさきだった。苗字じゃなくて名前だったけど。

 敢えて認めることにするけれど、これは憐みの感情が多く含まれていた。その頃の僕が好きなのはあくまで彼女の文章と、それを構成するに至った彼女の生い立ちや考え方に限定されていた。だから初めは彼女自身に異性としての興味はあまり持っていなかった。けれど彼女があんまりにも不憫に思えて、なんとなく自分の傍に置いておきたかった。 
 けど付き合ううちにやっぱり好きになった。そんなもんだ。
 あるいは、これが真実の愛だったのかもしれないね、なんてことを書けたら良かっただろうか。詩人としては90点だけど、作家としては40点くらいの回答だと思う。

 
 ある日、僕がみさきのことを自分の母親に話したら、母には「その子のことを大切にしてやりなさい」と言われた。それはとても暖かかった。けれどみさきを知った今、それはとても残酷な言葉のようにも思えた。この暖かさはきっと、みさきが何よりも欲していた物だっただろうから。
 自分がどれだけ恵まれた世界で過ごしてきたのかを、僕はその時改めて感じた。


 みさきと付き合ってからも、僕は相変わらずみさきの文章を読み続けてきた。ある日、僕はみさきの文章が以前よりもつまらなくなっていることに気付いた。はじめは自分が飽きたのだとか、みさきはたまたま上手く書けない時期が続いているのだとか、そうやって自分に言い聞かせていた。けれどやがて、明らかにみさきの文章が自分の求めているものと乖離し始めているのだと確信した。

 そしてその頃から、みさきは笑顔が少しずつ多くなっていった。付き合い始めはどこに遊びに行っても怯えるようにしていた彼女が、少しずつ心からその幸せを享受するようになっていった。怒る回数も、惨めだと嘆く回数も、少しずつ減っていった。

 僕は薄く直感した。彼女の文章は、彼女自身の抱える心の苦しみを燃料にして紡がれていたのだと。そしてその燃料を空っぽにしたのは、他でもない僕自身だと気付いた。

 この二律背反的な状況を前にして、僕は悩んでいた。
 
 僕はみさきが好きだ。幸せが信じられなくて、楽しい時でもふいに怯えた表情をする。夜は怖くて眠れない癖に、つまらない映画を見るとすぐに寝てしまう。そんな彼女のことを、心から愛していた。
 けれど、彼女の描く物語のことも好きだった。壊れた言葉で壊れた少女の独白を描く。ドミノ倒しのように不幸が舞い降りて、誰一人手を差し伸べてくれない。けれどいつか救われると信じて、幸福になった後の日々の夢を見続ける。彼女の描いたそんな世界のことも心から愛していた。

 現実の彼女が救われると、作家としての彼女は失われてしまう。
 現実の彼女が不幸なままでいれば、彼女の作品はその美しさを保ち続ける。

 現実の彼女を殺してしまうか。
 それとも、作家の彼女を殺してしまうか。


 そんなことを悩んでいたある日、少しだけ酔ったみさきが饒舌になって話していた。

「あたしさ」
「うん」
「これからは、幸せじゃなくても大丈夫だと思う」
「急だ」
「ずっと、幸せになるのが怖かった。ぬか喜びして、その先にまた不幸が訪れたら、もっと辛いのかと思ってた。けど、今は違うって思う。これから先、あなたと離れても、どれだけ辛くても、きっとこの日々を抱きしめて、良かったなと思って生きていける」
「……けど、それは二度とみさきが不幸な頃には戻れないってことなんだね」
 不思議なことを言うね、とみさきは笑う。
「それは悪いことなの?」
 そう思っているのはきっと僕だけだ。


 それからも長い時間悩んでから、僕はやっと決断した。
 ほんの少しだけ泣いたと思う。





 

 次の日には指輪を買い、そのまま僕たちは結婚した。

 

 

 毎年、結婚記念日の前日にはコンビニで一番高いタバコを買う。
 普段吸わないそれを彼女に見られないようにベランダで少しだけ吸い、その後にそれをサボテンの植木に差す。
 立ち上る煙をぼんやり見つめながら、僕はかつてこの世界に存在していた一人の作家のことを思い出す。それは誰も知らないままこの世を去った、僕が一番心から愛した作家だ。

 この世界では、毎日たくさんの人が生まれて死んでいる。
 そして、それと同じくらいたくさんの作家が死んでいる。

 一人一人の身体のうちには、ある瞬間、宿主がある精神状態の時にしか生きられない作家が存在している。その作家は宿主に起こるふとしたことですぐに死んで、代わりに別の作家が生まれる。
 今のみさきの中には、きっと別の言葉を紡ぐみさきが生きている。けれど、僕の愛した世界を描いていたみさきには、もう二度と出会うことが出来ない。

 
 これは、僕が殺した彼女の話。







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