「キリエのうた(小説)」所感
タイトルの通りなので今回だけは許されると思って安易に使うが、「人間讃歌」として洗練された物語だった。懸命に生きるキャラクターたちの力強さを活字でこれだけ出せる岩井俊二さんは小説家としてももちろん非凡だ。
「すずめの戸締り」「わたしはあなたの涙になりたい」に続き、去年と今年で東日本大震災に「真正面から」触れた作品に出会ったのは3作目だった。立て続けに、というと仰々しいのかもしれないが、やはりこの10年と少しの歳月がやっと出来事を「物語」にすることを許したのではないかと思う。
「震災」という人には制御できない自然の脅威の中で、同じく人の領域を越えた「宗教」について触れているあたりなど、「SWAN SONG」との類似点がいくつか挙げられる。また、同様に「音楽」、もっと言えば「ライブ」という刹那的で再現不可能な媒体を用いて人間の超越や神秘を描いていたところも「キラ☆キラ」と類似している。それなりに愚直に理不尽と向き合って物語を描いている人間みな最終的に、これらに相関を見出すのだろうか。
最も、あちらが「震災を用いて人の醜さと美しさを描いた」のに対し、こちらは「人の醜さと美しさを通して震災を描いた」ように捉えられる。つまり行っていること自体はそれほど近くないので、上っ面の素材の話でしかない。(ならなぜ語ったのか)
10代や20代の男女に背負わせるにはあまりにも酷な十字架のようにも思えるが、その渦中にいるキリエは至って飄々として生きている。(少なくとも、僕にはそう見えた。)
夏彦と希はかつて持っていた信念や高潔さを、性欲をはじめとした本能にあっさりと潰されてしまう。夏彦は結果としてその十字架を背負い続けたまま、その罪の意識を路花に向ける。
イッコも、かつて自分が嫌悪し、故郷を離れる理由にすらなった「女」を結果的に東京の街で振るい続けてしまう。
人間の醜さを切り取ったように描かれた彼らにとって、ただ「生きている」だけのキリエが自分たちの生すら肯定しうるほどの救世主であったことは言うまでもない。声を出さないが歌を歌うキリエは、彼らにとっても読者(映画ならば観客)にとっても『象徴』であり続ける。
この力強さが、映像と音を伴ったあとには一体どれほど魅力的に映るのだろうか。来週が待ち遠しい。
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