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一日一回、女の子と二人でご飯を食べます。

※一部、過激な表現があります。
※作品はフィクションであり、実際の国家、社会、組織とは一切関係がありません。
※作品は特定の人々の肯定や否定を行うものではありません。また、特定の差別を助長するものではありません。

【登場人物】
「鳴」……ヒロイン。かわいい。
「先輩」……先輩。かわいい。
「僕」……主人公。ぜんぜん格好よくない。

 【1】

 18の春から始まる話だ。
 東京の小さな大学に通うことになった。

 初めは少し心配していたけれど、僕は自分が思うよりも早く、新生活というものに順応することができた。

 最初の一ヶ月は入学式や学科のオリエンテーションで知り合った友達とつるんでいた。昼食も、彼らと一緒に食べていた。
 昼休みが決して長くなく、都内といっても少しだけ駅から離れたところにあるので、美味しい飯屋も少し歩いたところにしかない。
 だから、食事はもっぱら学内の食堂で済ませるのが通例となっていた。

 在学生の人数も少なく、敷地も広くない大学だ。食堂なんてものは一つしかない。それでもあるだけマシだと、そう思っていた。

【2】

 『彼女』と初めて話したのは、五月の半ばだった。けれど、四月の半ばから、彼女のことを目にはしていた。

 少なくとも僕に取っては、彼女はとても目立っていた。
 
 食堂で、
 いつも一人で、
 頼んだ定食に、
 少しも口をつけないで去っていく。

 どうしてか、泣きそうな表情をしたまま数十分座り続けたのち、返却口へと自分のお盆を持っていく。
 お盆の上の定食は、盛られた時の状況のままである。

 最初は「変な奴もいるものだな」とだけ思っていた。

 それから数日、食堂で見かけ続けた彼女は、徐々に顔がやつれていった。
 それなのに、決して彼女は食事に手をつけようとしない。

 過度なダイエットでもしているのだろうか。
 ならそもそも食券を買わなくていいのに。お金の無駄だ。

【3】

 五月。
 中間試験の再試に友人全員が呼び出されてしまったことが原因で、僕は一人で食堂の券売機の列に並んでいた。
 お察しの通り、あまり頭のよくない大学なのだ。その中でも、僕が最初につるんでいた友人たちはひときわ学問を嫌った。

 再試の人数分、いつもより列も短く座席の空きも多い食堂を見渡す。
 その日も彼女はいつものように、一人で、食事の前で、悲観的な表情をしていた。

 ああ、あの子は今日もまたか。
 僕はそう思いながら「日替り B定食」の書かれたボタンを押し、そのまま調理場へとチケットを手渡す。
 魚のフライに千切りキャベツ、トマト、味噌汁、白米。
 日替り定食の名を冠しておきながら、すでに入学して10回は食べさせられているこのメニューにも飽きてしまったな、なんてことを考えていた時だった。

「あの……」

 食事をしないあの子が僕に話しかけてきた。
 今にも消え入りそうな声だった。

「よ、よかったら、ご飯、ご一緒しませんか……」

 その日から、僕と彼女は食堂で昼食を共にすることになった。

【4】

 四国の田舎町からはるばるやってきたという彼女は、水窪鳴、という名前らしい。みずくぼ めい。

「いわゆる、拒食症、というものです」

 3度目の食事の時に、彼女はそう切り出した。
 僕と話すまで食堂で一口も食べていなかった、その理由を僕が問いただすよりも前に、だ。

「精神的な理由で、食事を食べることができない、そういう病気です」

「じゃあ、最近はちゃんと食べられているのはどうして?」

「限定的なものなんです、私の場合」

 彼女は、特定の条件でないと食事を取れないのだという。
 精神的なものだから、そういうこともあるのだろう。

「『誰か』と一緒じゃないと、食事ができないんです。一人だと、どれだけ努力しても、食事が喉を通りません。無理やり口の中に含んでも、吐き出してしまいます。決して飲み込めないんです」

 ああ、だから、僕といる今は食事ができているわけか、と納得する。

「その病気、精神的なものってことはさ……何か理由でもあるの。過去の体験とか」

「端的に言えば、小さい頃に両親が死んでしまったからです」

 彼女の話はこうだった。

 小さい頃に親を亡くし、それから引き取り手が見つかるまでの数日間、食事がほとんど喉を通らなかった。
 親が死んだショックで食べられないというのは、なんとなく理解できる。
 そして、その時抱いた絶望や孤独感なんかが、今も無意識の部分で糸を引いているのだろう。

 その後、彼女の遠い親戚である独り身の老人が、彼女を引き取ることを決めた。老人は彼女の元に行き、事情を説明するよりも前に二人分の食事を用意してくれた。彼女はその日、数日ぶりの食事を口にすることに成功した。
 けれど、その時から、彼女は一人では食事が食べられなくなってしまったのだそうだ。

 家ではその老人がいないと、
 学校では机を近づけてくれるクラスメイトがいないと、
 彼女は決して食事を取れなかった。

「あの日から、今まで、ずっとです。一番酷かったのは、友達ができなかった高校三年生。一年間、昼食を抜かなければいけませんでした」

「あんまりな学生生活だね」

「もう、両親のことを思い出すとか、そういうこともほとんどないんですけどね。それなのに、身体は言うことを聞いてくれません」

「じゃあ、今もそのおじいさんと暮らしているの?」

「……いえ、つい数ヶ月前に死んじゃいました」

 それで彼女の引き取り手がいなくなったのだという。幸い、生活費の目処は立ったものの、親戚は皆彼女を引き取ることを拒否した。

 だから彼女は今、この大学に入って、都内で一人暮らしをしている。

「最初の1週間は、オリエンテーションで席が隣だった子たちとご飯を食べました。けれど……もうお分かりだと思いますけど、あまり話すのが得意じゃないんです。彼女たちはすぐにもっと息の合う人間たちでグループを作ったり、サークルの人と遊ぶようになったりして……すぐにひとりになってしまいました」

「じゃ、最近はどうやってご飯食べてるの」

「一応、地元に居た時の事情を知っている友達が居て、何度かその子と会いました。けれど、その子も大学生活が忙しいですし……毎日会うことはできません」

 つまり、今の彼女は、丸一日何も食べない日さえあると言うことだ。

「だとしたら、君はすぐにでも学内で食事相手を見つける必要があるね」

「はい」

「それなのに、誰とも一向に仲良くなれないんだ」

「……はい」

「まあ、そういうこともあるか」

「……すみません」

「いや、別に謝らなくていいけど」

 友達は、できない時は、とことんできない。
 それは僕も身に覚えがあった。

「君がどうしてあんなふうにしていたのか、よくわかった。
 ……それに、そんな危機的な状況なのに友達が一人も作れない原因も、なんとなく理解できた。
 ふつう、それは出会って三日の人間に話すような内容じゃないよ」

 僕がそう指摘すると、彼女はにへらと笑う。自己主張が苦手な人間が困った時に同じ笑みを浮かべているのを、僕はこれまでの人生で何度も見かけた。

【5】

 それから先も、僕と彼女は昼食を一緒に食べ続けた。

 大学の食堂以外は一度も使わなかった。

 毎日毎日、それぞれで券売機に並び、お盆を受け取り、お互いを探し、テーブルに向かい合わせるか、隣り合わせるかをして座る。
 ぽつぽつと話すが、それほど話が弾むこともない。けれど、彼女は僕がいる時にだけ食事ができた。
 
 元々、彼女は一日一食食べれば十分なのだそうだ。
 それは生まれ持ったものなのかもしれないし、前に話していた「高校三年生の時」などを経て形成された彼女の体質なのかもしれない。実際のところはどうなのかわからなかったけれど、僕は深く追求することはしなかった。

 僕はといえば、初めの頃の友人たちと昼食をとることはなくなった。
 講義が同じ時には話しかける程度のつながりは残ったけれど、遊びに誘われるようなこともない。

 その疎外感は一種の勲章のようなものだと捉えていた。だって、人を助けているのだから。
 僕は今も、ひっそりとヒーローに憧れていた。

【6】

 夏休みは特に学校に行く理由もなかったが、昼食の時間だけは食堂を訪れた。初日、鳴は当然のようにお盆を置いて座っていた。示し合わせてもいなかったのに、僕を待っていた。
 僕は鳴との食事のためだけに、猛暑の中でも大学に通った。
 少し億劫に感じてもおかしくはないのに、僕は何一つ躊躇わずにそうしていた。
 多分、端的に言って心地がよかったのだろう。ただ一緒に食事をするというだけの行為で、誰かの人生を救っているような気分になれたからだ。
 酔っていたことも事実ではあるが、たとえ偽善でも誰かを救うために行動することは、理想の自分にとても近かった。

【7】

 ある意味で、僕は鳴のことを特別に思っていた。
 けれど、遊びに行くことは、一度だって無かった。
 別に、そのくらいはしても良いはずなのに。どうしてか学校の外で会うことは一度もなかった。
 ただ、学食で昼食を食べるだけの関係だった。

 それからある程度の月日が経って、吹き始めた秋風を肌寒く感じ始めた頃。
 僕たちの関係を阻害しかねないイレギュラーが起きた。

【8】

 僕に好きな人ができた。
 同じ大学の先輩だった。

 きっかけはレポートを書くために図書館を訪れたことだった。
 図書館にはいつも、美人で聡明な三年生がいる、という話はなんとなく知っていた。

 決して広くない図書館だったこともあってか、学内においてその先輩を知る人は少なくなかった。
 年上からは「図書館の姫君」と呼ばれていて、年下からは「図書館の女王」と呼ばれていた。 
 フィクションみたいな話だけれど、みんなバカだから、すぐにそういう名前をつけたがる。

「何、読んでるんですか」

 こんな不真面目な学校で図書館に篭り、真面目に学術的な本を読んでいる。そんな彼女のことがつい気になって、僕は声をかけてしまった。

「バートランド・ラッセルだよ。分析哲学、というものを知りたくてね。もっとも、私はそういう畑の人間ではないから、論理から逃げてラッセルの日記なんかばかり読んでしまっているけど」

 何を言っているのかはわからなかったが、彼女の頭がとてもいいことだけはよくわかった。
 少なくとも、僕みたいなバカをそう錯覚させる程度には。

「哲学って、生きる意味を見つけるとか、そういうやつですか」
「まあ、間違ってはいないね」
「先輩、噂通り、頭いいんですね。僕はそんなこと、考えるほどの知能がないです」

 先輩は苦笑する。

「本当に賢い人間は、生きる意味なんて考えないよ。そんなことに拘泥しているのは、私が愚かで、弱い人間だからさ」

 そう言い切るところが格好いいと思った。

 初めは純粋に、先輩のことをもっと知りたいと思った。
 そんなつもりはなかったのだけれど、頻繁に図書館に足を運んでいるうちに、先輩に特別な感情を抱き始めた。

 そして、同時に気付いた。 

 この感情は、鳴に抱いている感情とは明確に違う。

【9】

 それから僕は、世間がしきりにぼやくある言葉の意味を初めて考えた。
 
 『恋は、理屈ではない』

 けれど、世の中の人間が美辞麗句として崇めるこの言葉は、僕にとって呪いにも等しかった。

 理屈ではない行動に、僕は何度も首を閉められる。二の次にしたいはずの恋に囚われて、僕は自分の理想を何度も否定しそうになる。

【10】

 先輩と関わっているあいだ、自分の取っている行動のすべてが、思い返せば筋の通っていない行動であるように感じられた。

「君は、毎日毎日遊びに来るね」

「嫌ですかね」

「いや、それは構わないんだけれど……君の彼女さんは怒らないのか? ほら、あの小柄な……」

 先輩が鳴のことを言っているのは、もちろんすぐにわかった。

「彼女とは付き合ってませんよ、ただ、昼食を共にする関係なだけです」

 僕は鳴の状況をかいつまんで説明した。
 先輩は「そうなんだ」と頷きつつも、訝しげな表情をしていた。

「まあ、そうは言っても、それに近い関係なのだろうな」とでも思ったのだろう。僕が逆の立場だったら、きっとそう考える。

「……どんな形であれ、君はその子のことを大切に思っているのだろう?」

 先輩はそれだけを僕に尋ねた。
 僕は閉口したまま頷いた。

【11】

「最近、一人で食事できるようになった?」

「……ううん、全然、食べれるようになりません、ごめんなさい」

「いや、別に謝らなくても良いけど」

「……………………」

「……………………」

「……あ、あなたは最近、よく図書室に行ってますよね」

「うん」

「図書室には、有名人がいますよね」

「うん」

「……好きなんですか、異性として」

「鳴には関係ないよ」

「でも、それなら、無理に私と食事しなくても、いいですから。大丈夫ですから」

「最近、唯一の友達が四国に帰ったって言ってたじゃん」

「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……そっちこそ、僕のこと、あんまり気にしなくていいからさ」

 僕は口ではそう言い続けた。
 けれど、先輩に徐々に気を取られていくことと反比例して、少しずつ鳴のことをおざなりにしているような気がした。

【12】

 そして僕は、自分の中にある男としての本能のようなものを少しずつ忌み嫌うようになっていった。

 元々、強いて誰かと付き合いたいなんて思ってはいないし、結婚願望なんかがあるわけでもない。恋愛体質ではないのに、少なくとも自分ではそう思っていたのに。

 そんなことより、僕は鳴の助けになりたいのだ。
 僕は、自分の恋路なんかを優先させるよりもずっと、鳴のことを優先させたいはずなのだ。
 心から、そう思っているのだ。

 しかし、頭の中ではそう思っていても、気付けば僕は先輩を目で追ってしまう。声をかけてしまう。話し込んでしまう。
 図書館に行くことを優先して、食堂に行くのが遅れたり、食堂から去るのが早くなったり、そういう自分自身がどこまでも不甲斐なかった。

 ある配信者が『男は結局、格好つけていてもち○ち○には逆らえませんからね』と言っていたことを思い出す。
 今の僕もそうなのだろうか。だとしたら、こんな醜いものはさっさと取り払ってしまいたい。

【13】

 もしも。 
 僕が鳴のことを異性として見られたら、どれだけわかりやすい筋書きになっていたことだろう?

 今、自分が先輩に取っている行動を鳴に対して取ることができれば、彼女は今よりももっと安心して食事を取れるようになるだろう。
 今は互いに気を遣って昼だけ一緒にいるが、付き合えば三食一緒にとることだってできる。 
 きっと、全てが収まるべき場所に収まっていくはずだ。

 けれど、僕は決してそうはしない。
 僕の理性の届かないところが、そうさせないからだ。

 そんな自分自身が、心底醜く思えた。気持ちが悪かった。

 それなのに、ずるずると----自分の中での本能的な部分に抗えないままに、僕は先輩に近づこうとした。

【14】

 そしてついに、僕は先輩に告白を『してしまった』。

 その瞬間でさえ----僕は自分自身に対する嫌悪感を覚えていた。

 これまでの行動を起こしていたのは全て自分だし、その瞬間に告白の言葉を発したのも当然自分の意思だ。
 けれど、僕はそれがどこか自分の制御できない部分に依るものであるようにも思えた。
 まるで、自分が人類を繁栄させるための操り人形の一体にすぎないように感じられた。


【15】

 先輩は驚くこともなく、いつも通りの静けさで言葉を返した。

「……ありがとう、けれど、君にはあの子が居るだろう? 
 恋人という意味じゃなくても、あの子のそばに居る必要がある。それはこれからも変わらないはずだ。
 ……君は、その上で、私に告白をしているのか?」
「……………………」
「だったら、これから先、君と彼女の時間はどうなるんだい? 私とお昼のデートは、これから先一度もなくたって構わないのかい?」
「鳴だって、説明すれば……」
「違うよ。私が聞きたいのはそういう言い訳じゃない」

 ああ、まただ。
 僕は自分のエゴを優先して、自分自身の理性が求めた理想像を簡単に捨て去っている。

 ある瞬間だけ僕の脳内の寄生虫が話しているみたいだ。
 それは確かに僕の言葉でありながらも、知らぬ何者かに思考を占領されているような、悍ましい感覚がする。
 けれどもきっと、それも含めて僕なのだ。
 それが、ただただ悲しい。
 どうして僕たちは、こんな生き物なのだろう?

【16】

 先輩は顎に手を当て、しばらく静止したのち、僕に質問を投げかけた。

「……君は、彼女の言うことが、何処まで本当なんだと思う?」

 一瞬、先輩が何を言っているのかがわからなかった。

「彼女が『食事を摂れない』というのは……彼女に対する、正しい理解なのだろうか?」
「鳴が嘘をついている可能性がある、ということですか?」
「うん、端的にいえば、そうだ」
「あれだけ食事を摂れない姿を見てきましたから、拒食症が嘘だとは思えませんよ」

 顔面が蒼白になったり、見る見る間に痩せ細っていったりする、あれが演技だとするならば、鳴はアカデミー賞も夢ではないだろう。

 しかし、先輩は「違うよ」と首を横に振った。

「私が考えているのは、彼女の身体の話ではない。彼女の理性……思考……そういった類の話だ。
 ……なあ、彼女は本当に、食べられないことが辛かったのだろうか?」

 先輩の言っている意味がわからなかった。

「……どういう、意味ですか」

「ごめん、もっと直接的な言い方をするよ。

 彼女は、本当は、死にたがっていたんじゃないのか?

【17】

「それは……どういうことですか、先輩。僕には全くわからないんですが」

「『食べたいのに、食べられない』のではなく、『食べたくないのに、食べたい』、というのが、今の彼女の本質なんじゃないか?」
 
 僕は、この賢い先輩が言っていることがやっぱりわからなかった。

「彼女のその、『限定的な拒食症』のみにフォーカスすれば、前者の話になるだろうね。けれど、彼女自身に目を向けると、不可解な点が幾つかあるんだよ」

 それなのに、先輩は僕を置き去りにして話し続けた。

「本当に誰かといないと食事をとれないのだとしたら、友人と同じ大学を受けるだろう。四国の方が、家賃も物価も、もしかしたら学費だって安いだろうし。彼女の事情は知らないが……親戚と一緒に住んでいないのならば、そのくらいの融通は利いてもおかしくない。それなのに、わざわざ東京に、というのは、やっぱりヘンだ。まるで自殺行為だ」

 じゃあ、それが『まるで』じゃなかったとしたら?
 先輩は、ある意味でとても素直に----そう考えた。

「恐らく、彼女の理性は『食事を取りたくない』だったのだろう。そう仮定したほうが、様々なことが腑に落ちる。そして、そう思うに至った理由も、なんとなく察することができる」

 そこでやっと、僕も意味がわかった。
 先輩の10分の1か、それより少ない理解かもしれないけれど、それでも先輩の発言の本質だけは理解できた。

「鳴は死にたいと思っていた。その理由は……
 唯一の身内を、再び失って、心が折れてしまったから、ということですか」

「そう、考えられない話ではないよね」

 僕は小さく頷く。

 死にたい鳴がとるべき行動。
 知った人間がいない場所に行くこと。
 彼女にとってのそれは、緩やかな自殺に等しい。

 だけど、それでも『腑に落ちる』とは言い難かった。

「でも、先輩が言いたいのは、鳴が本当はそのまま食事を摂らずに死にたかった、ということですよね。
 けど、だったら、どうして僕に声なんてかけたんですか。一緒に食事をしようなんて、言ってきたんですか。矛盾しています」

「……矛盾、ねぇ」

 先輩は複雑な表情をする。
 まるで、お前はまだわかっていないのか、とでも言いたげに。
 あるいは、どうしてお前はまだ気づかないふりをしているのか、とでも言いたげに。

【18】

「……君は、自分の思考と行動がちぐはぐになってしまったことは、あるかい?」

「はい?」

 突飛な質問のように感じた。けれど、もちろん話の続きだ。僕はその意味をよく考えながら、先輩の続く言葉を聞いた。

「頭では『こういった行動を取りたい』と思っているはずなのに、気付けば別の行動を取ってしまっていた、準備とは全く違うことを話してしまっていた。
 そうして夜になって、何度も何度も、自分の軽率で考え無しの発言や行動を後悔した。
 そんな経験はあるかい?」

「………………はい、あります」

 僕は頷いた。
 そして、先輩の言っていることの意味がわかった。

 僕自身が現在進行形で抱えている悩みと、鳴の矛盾は、本質的には同じではないだろうか、ということだ。

 恋愛なんて必要がない、そんなことを優先させるのではなく、鳴のことを優先させたい。
 それなのに、頻繁にその誓いを忘れ、気付けば本能的に好きな女性を優先させてしまう。
 そんな愚かな僕。

 生きることに疲れたと感じ、自分の拒食症を利用して緩やかな自殺をしたい。
 そのはずなのに、不意に食堂に行き、食券を買ってしまう。
 挙句の果てには、話したことのない同級生に声をかけてまで、無理やりに食事を取ってしまう。
 そんな愚かな鳴。

「……うん。彼女のジレンマは、今の君とよく似ている」

【19】

 僕は、出会った時からずっと、勘違いをし続けていたのだ。

 一人でいる時に鳴が見せていた、あの涙。
 それを僕は、何かを食べたくても食べられない故の涙だと勝手に思っていた。
 けれど本当は逆で、食事を取ろうとした自分自身の本能に対する悲しみだったのだろうか。
 
 初めから今まで、僕は鳴をちょっとは助けた気になって、何一つ理解さえもできていなかった。

「はっきり言うけれど、私も君に好意を抱いていないわけじゃない。毎日毎日、甲斐甲斐しく自分の元を訪れてくれる後輩に、特別な感情を抱いてしまうのは不思議でもなんでもないだろう?
 だから、今の話を理解した上で、君が私を選ぶなら、私は喜んで君の手を取るよ、でもね……」

 先輩はいつにも増して真剣に、それでいて慈愛を持った眼差しで僕を見る。

「もう一度聞くよ。
 『君は、その上で、私に告白をしているのか?』

 ……君が乗った船だよ。だから、君が決めなければならない」

 その通りだ。
 実際の理由まで辿り着けなくとも、彼女の過去や現在が後ろ暗い事くらいはわかりきっていた。
 それなのに、自分勝手な優越感という快楽に惑わされ、生半可な気持ちで付き合いを続けたのは僕自身だった。

 ヒーローになりたいというのは、きっと世界で一番卑怯なエゴだ。
 だから、これは僕が背負うべき罪だ。

【20】

「先輩」

「何かな?」

「やっぱり、お付き合いの提案は無かったことにして欲しいです」

「ふうん、そうかい」

「というか……そもそも、僕と先輩の間には、何も無かったことにしてください。お願いします」

「随分と、自分勝手な話だ」

「わかっています。それでも、です。きっと僕は、このままだと僕の理性に反した行動をとり続けてしまうから。
 それは嫌なんです。僕は鳴の側にいたいんです。例えそのことで、自分がどれだけ後悔しても、です」

 先輩はふぅ、と嬉しそうに、けれど少しだけ切なそうにため息をついた。

「君の意思は伝わったよ。だから、君からの告白だけは無かったことにする。
 けど……何も無かった事にするなんて、そうはいかない」

「えっ」

「私は、たとえそれが自分の失恋の物語だったとしても、無かったことにはしたくないんだ」

 そう言って先輩は、僕に一発ビンタをかました。


 後に、難攻不落の図書館の女王が冴えない一年生に振られた、という噂が広まった。

【21】

 その夜、僕は初めて鳴を夕食に誘った。

 場所も学食ではなく、僕がよく行く渋谷の好きな定食屋にした。

 ちなみに鳴は渋谷の近くに住んでいた。
 出会った頃の僕は、彼女が食事を一緒にとる知り合いを作るために、こんな人の多い場所を選んだのだろう、くらいに思っていた。
 けれどきっと、彼女はそんなことを求めてここに住んだわけではない。

 なら、どうしてだろう。
 僕はそこでなんとなく、小さな頃に遊んだロールプレイングゲームのことを思い出した。
 その作品には、巨大なゾウの魔物が敵として現れる。
 しかし、そんな恐ろしい魔物でさえも、死ぬ間際には人間の教会を訪れ、そこで息絶えるというのだ。
 『人と相容れない化け物であっても、最期くらいは人の神様に看取られたかったのだろうか』なんてことをゲームの中のキャラクターは呟いていた。

 一人になって死んでしまおう、なんてことを考えていたはずなのに。
 彼女も最期くらいは、人の沢山居る場所で死にたかったのだろうか。

 そんなことを考えながら、彼女を待った。

【22】

 食事をしている間、僕は鳴に彼女自身の嘘について訊いた。

「……あなたは馬鹿だから、一生気が付かないと思っていました」

 彼女は珍しく、棘のある言葉を吐いた。本当はこういう子なのかもしれない。僕はやっぱり、彼女のことを何も知らなかった。

「……ほとんど、あなたの言った通りですよ。おじいさんと暮らしていた時は、こんな体質でも、生きていこうと思えていました。苦しいけれど、必死に食らいついていました。
 けれど、おじいさんも死んでしまって、再び親戚をたらい回しにされて、挙句の果てにはお金だけ渡されて、放置されて……
 もう、頃合いかなって、思ったんです」

 それなのに、彼女は気付けば僕に声を『かけていた』。
 今更になって、彼女の本能が、彼女に生きることを強いた。

 先輩はどうして、そこまでわかってしまったのだろう。バカな僕には見当もつかない。

「……だから、あなたがあの先輩と付き合ったり、結婚したりすると、わたし、またひとりぼっちになっちゃうかもしれませんね。
 今度こそ、ご飯、食べられなくなっちゃうかもしれませんね」

「いや、僕は絶対に、鳴の元を離れないよ。これから何があっても」

 好き合っている男女の会話だとしたら、歯が浮くような台詞だ。
 そうでなくても、十分すぎるくらいに格好つけた言い回しだろうか?

「口ではそう言っても、きっとできませんよ。あなたがどれだけ私のことを大切にしたくても、あなたの本能は、あの先輩に向かっていますから」

「僕はもう、先輩とは会わないよ。あの人とは学年も違うし、学科も違う。僕はもう図書館には行かないし、あの人も別の場所を拠点にするって言っていた。だから、そもそももう会えない」

「……それでも、きっと無理です。だって、私は、私たちは、無意識や本能がそんな単純な制約に縛られないことを、痛いほどよく理解しているはずです」

 鳴は僕の方を向きながら、僕よりも遠くにある世界を見ていた。
 長い間----少なくとも、彼女の両親が死んでから、彼女は僕なんかよりもずっと、操れない自分自身という矛盾に苦しみ続けてきたのだろう。
 それがどれほどの苦しみなのか、僕にはまだ見えない。

「うん、それでも、僕は僕の本能に、負けたくないんだ」

 僕がそう言ったのちに、鳴は何かを諦めたかのように息を吐いた。

「……だったら、もし、あなたが最後まで自分自身に抗うことができたとしたら、その時はわたしの負けですね」

「どうして?」

「だって、わたしは本能に勝てませんでしたから。
 あれだけ死にたいと思っていたのに、二限の後はいつも食堂に向かっていました。
 どうしても食事を取れないことがわかっていたのに、わたしの中の制御できない別の部分が、栄養を求めるんです。
 あの日、あなたに話しかけたのも、そういう理由ですから。自分の生存を優先させたせいで、自分に一番関心を持っていそうな、知らない人に、つい話しかけてしまいました。
 後から考えてみれば、あなたの顔なんて全く好みでもないのに」

「ひどい言いようだ」

 仕方ないじゃないですか、と言って、鳴は天井に目を向けた。

「わたし、なんなんでしょうね。
 
 私が食事を望めば、身体がそれを拒む。
 私が食事を拒めば、本能がそれを否定する。

 ……どうして、こんなことになっちゃったんでしょうかね?」

 僕には何もわからなかった。それでも何か言ってあげたかった。けれど、気の利いたことは何も浮かばず、結局は無理やりそれっぽい言葉を捻り出した。

「鳴のそれは少し特別なんだろうけど……でも、僕たちはみんな、どうしようもなく、ちぐはぐなんだと思うよ」

 全てがわかってしまった時と、何もわからない時は、似たようなことを言うのだな。
 言いながら、そう思った。

「そんな言い回し、誰の影響なんですかね」

 鳴が笑った。出会った時と比べれば幾分か健康的な顔色をしていた。
 そんな彼女の小さな体躯を、白い肌を、長いまつ毛を、もう一度ゆっくりと見る。
 そしてもう一度、確信する。

 この『特別』は、やっぱりあの『特別』ではない。
 どれだけ時が経っても、それが覆ることは、きっとない。

 それでも僕は、彼女を一番大切にして、彼女のことだけを考え続けたいと思った。
 心から、そう思った。

「鳴、今からホテルに行こう」

 僕がそう言うと、鳴は呆気にとられた表情をする。

「そういう気分になってしまったんですか?」
「いや、むしろ、全然そういう気分じゃないから、しよう」
「なるほど」

 彼女は拒まなかった。

【23】

 そのまま僕と鳴は二人で円山町のホテル街へと向かい、その中で一番質素な建物に入って性行為をした。

 僕は全然気持ちよくなかったし、彼女は彼女でとても痛そうにしていた。
 けれども僕たちは、そのどうしようもなく不快でつまらない営みを最後までちゃんと行った。
 それが、僕の身体の一番内側、あるいは世界の一番外側から、僕を操っている得体の知れない『何か』への必死の抵抗になるのだと、僕は信じたかった。

【24】

 それから、彼女と手を繋いで、道玄坂をゆっくりと下る。
 無理に恋人繋ぎをしていたが、やっぱり気分が高揚するようなことはなかった。
 鳴の手はとても小さくて、今にも消えてしまいそうだった。そのせいで不安だけが強く感じられた。
 小さい頃、大好きなぬいぐるみを失くしたくない一心で、いつも肌身離さず掴んでいた、あの頃とよく似ている。

【25】

 やがて、人に埋め尽くされたハチ公前が見えてくる。

 広告の前で横になる酔っぱらい。
 交差点でナンパをする若者。
 気の弱そうな中年めがけてチラシを配る地下アイドル。
 ゴスロリの格好をした男性を指さして笑う大学生の集団。
 それらを鬱陶しそうに避けるサラリーマン。
 
 相も変わらず、汚い街の、醜い景色だった。
 けれど、こんな風に入り乱れながらも、一つ一つがちゃんと存在している。

 あの中にはきっと、僕らみたいに本能を飼い慣らせずに苦しんでいる人がいて、そもそも理性になんてこれっぽっちも期待してない人もいて、逆に生物として大切なそういう本能がぽっかり失われたような人間もいて、その全てが、等しく息をしている。
 それはとても、尊いことのように思えた。

【26】

「ねえ、鳴」

「なんですか?」

「明日、海に行こう」

「……もうすぐ冬なのに?」

「うん、夏は行けなかったから」

「泳げない海で、何をするんですか?」

「砂浜で追いかけっこでもしよう、嘘でも、笑いながら」

「……そんなことをして、あなたは幸せなんですか?」

「きっと、幸せじゃないだろうね」

「そうですか」

「それでも、そうしたいから、行こう」

「………………はい」

 僕たちは、もう一度互いの手を強く握り直した。
 まるで恋人のように、指の一本一本を絡め合った。
 僕にはそれが、二人でやっと一人分の、とてもいびつな形をした祈りの手のように思えた。
 それがなんだか可笑しくて、不思議な気分になった僕はつい神様に願い事をしてしまう。


 いつかこの感情も、恋と呼ばれる日が来ますように。




(終)







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