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吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ

文屋康秀

これさだのみこの家の哥合のうた

吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ

(これさだのみこのいえのうたあわせのうた
ふくからに あきのくさきの しおるれば むべやまかぜを あらしというらん)

 秋だったんだよねえ。吹いたと思ったらすぐに、草木が枯れちゃったねえ。だもんで、うん、山と風を組みあわせて嵐と言うんだよねえ。山からの風で景色が一変しちゃったねえ。美しい庭の永遠を願っていたよ。

からに…とすぐに。…ために。…ばかりに。
むべ…なるほど。
あらし…嵐と荒らしの掛詞。

古今和歌集によると是貞親王家歌合(892年秋?)で詠まれたそうだが、文屋康秀さんは仁和元年(885)に亡くなっているらしいので、これまた別人の作品(子の朝康)なのかもしれない。

歌合なのでもう少し堅めの訳をした方が良いのかもしれないけれども、これは離合詩やダブルミーニングなどの遊びを楽しんでいるのではないかと思うので、私も遊んでみました。
離合詩は、漢詩で、字の偏(へん)や旁(つくり)を分けた文字を組み合わせて詩を作る技巧というか文字遊びです。
六朝後期に流行しましたが、古今集の歌人たちも影響を受けたようです。「雪ふれば木毎に花ぞさきにけるいづれを梅とわきてをらまし」(雪が降ると、木ごと、つまりそれぞれの木に花が咲いたみたいだよねー。どれが梅の木なのか、紛らわしくて困っちゃうよねー)と、紀友則さんも歌っています。「木」と「毎」を組みあわせて「梅」ですね。

ということで、文屋康秀自身が読んだ歌かどうかは分からないのですが、文屋康秀という方について。
出世はしなかったのですが、現代においても六歌仙として有名人です。二条の后(高子)に召されて歌を献上しているし、当時の有名な歌い手だったのだろうと推測します。

それと、なんと言っても、小野小町さんとのご関係ですよね。
「文屋康秀が三河掾(みかわのじょう)になりて、「県見(あがたみ)にはえいでたたじや」と言ひやれりける返事(かへりごと)によめる」…文屋康秀が、三河掾になって、「私の任国(現在の愛知県東半部)にお出でになれそうですか。どうかな」と言ってきた返事として詠みました。

「わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘う水あらばいなむとぞ思ふ」(思い悩んで鬱々と暮らしていますので、我が身を浮き草と思って根を断ち切り、誘ってくれる水があるならば、そちらへ流れていこうと思いますよ)

ですって。お洒落な返しですね。
おふたりは良い仲だったんですね。
当時、おふたりはおいくつだったのか分かりませんが、大人の恋愛という感じがします。若い頃からモテモテの小野小町さんを文屋康秀はいつまでもお好きだったのでは? 長い間彼女の恋人のひとりだったのではないかと想像します。

文屋康秀

出典 古今和歌集、百人一首22番歌

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