『無条件に人を信じる強さ』を失いつつあったので、自分の器を広げることを一旦辞めてみることにした
ここ数週間は何となく上ずっている感覚があり、良くない方向に向かってるぞと感じていたので、色々整理してみた。
人間的な器を大きくもたねば…というべき思考
「人間の本質は善である。」
これは、ルトガー・ブレグマンの『Huma 希望の歴史』という本の中の言葉である。彼は、人間の本質は性善説であることを度々記しているが、これが今の自分にはなかなか刺さるものがあった。
というのも、最近よく「ちょっと自分を信じるのが難しいぞ・・・」と自己信頼が揺らいだり、「あれ、無条件に人を信じることってめちゃくちゃ難しいのでは??」と人を信じる難しさに直面していたからだ。
振り返って色々整理してみると、「様々な考え方や価値観を受容してこそ人間的成長で、それが出来ない自分はまだ器が小さいのだ。」という頭でっかち思想に囚われるあまり、自分が許容できる範囲が分からなくなってしまっていたことに気づいた。
些細なもやもやに対して「うーん、でもこれはきっとこういう事情があるからだ」とか、「この人の価値観は価値観としてあるのだから受け入れなければ…」とか、何かと理由をつけて受けとめよう納得しようして、(自分が本来感じているはずの)怒りや悲しみに気づけず、ただもだもだしていたのだ。
感情をそのまま出すことができる強さ
私は自分の感情を自覚するのに時間がかかることもあり、怒りや悲しみといった負の感情に対して反応することが、おそらく少ない方である。
そして、そうした負の感情を出すことを基本的にはリスクだと考えてしまう思考の癖があるので、色んな感情をそのまま出せる人に強さと憧れを感じる。
以前からそうした”強さ”をもってるなあと感じてた人に、この話をしたら、このように返ってきたのだが、その人にとっては何気ないであろうこの言葉が自分にとっては結構な気づきだった。
私はあまり関わる人に対して敵とも味方とも思ったことがない。
おそらく、”敵”、”味方”、”どちらでもない”の3つに分類しろと言われたら、ほとんどの人を”どちらでもない”にカテゴライズしてしまうだろう。
どうやら味方を増やせば、感情を丸ごと出せる瞬間を増やせそうだ。
少し見方を変えてみるとそもそも負の感情を伝えることはリスクなのか問題もある。
これはどうやらNVC(Nonviolent Communication=非暴力コミュニケーション)というコミュニケーション手法の考え方で、前に進みそうな問題なので、また別の機会に書くことにする。
無条件に信じる強さをもつために
自分の許容範囲を明確にするために、自分の器を無秩序に広げることを辞めてみる。多分、人間的成長ってそんなすぐに進まないし、人の器ってそう簡単には広がらないだろうから、ちょっとずつできることをやってくことにする。
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