プラネット

 帰り道で通り抜ける商店街は、夏の夕方がとても似合っていた。

 夏の夕方というのは何もかもが特別に思えてしまう。いつもと変わらない自動販売機のジュース、少しせまい踏み切り、嫌になるほどの蒸し暑さ、たまに聞こえる風の音。普段と何も変わらないそれらさえも特別に思えてしまう。
 だから、だからか、あの夏の夕方に死んだあの子のことも特別に思えてしまうのかもしれない。

 初めてあの子に会ったのは、商店街の近くにある、ぼくのバイト先のスーパーのレジだったことを覚えている。その日はたしか、近くで祭りがやっていた。スーパーの目の前にある道路も歩行者天国になっていて、楽しそうな人々の雰囲気が店内にまで突き抜けてきた。三日ある祭りの初日ということもあってか、店内も大変な賑わいを見せており、そんなだから当然レジも込むはずで、ぼくが担当しているレジにも数人のお客さんが並んでいた。すると、
「遅いんだよ、この、グズ!」
と、化粧の濃いおばさんが、忙しなくレジ打ちをするぼくを怒鳴った。
「申し訳ございません」と謝ってもおばさんの怒りは収まらないらしく、ぼくにのろまだとかグズ野郎だとかの言葉を浴びせてくる。混んでいるんだからしょうがないだろう。しかもこのババアこんなに大量に買いやがって。祭りの花火と一緒に爆発しちまえ。
「次はもっと早くしてよね」
 やっとレジ打ちを終えると捨て台詞を残しておばさんは去っていった。すると、今度はかわいらしい少女の、
「ダメね」
という声が聞こえてきた。
 そう、そのおばさんの後ろに並んでいたのが彼女だったのだ。また怒られる。ぼくが身構えると少女は少し不満そうに、
「言い返してやればいいのに」
と言った。想像とは違う、思いがけない言葉にレジ打ちをする手が止まりかける。
「そういう時は、心の中で叫ぶのよ」
「えーっと、何て、ですか?」
「死んじゃえよクソババアって」
 おとなしそうな外見とは裏腹に、少女から発せられたのは汚い言葉で、ぼくはとても驚いた。
「一応、お客様ですし」
 返事をしたのにぼくには目もくれずに、少女はスキャンされていく大量の花火を見つめ、「ふぅん」と呟いた。レジには商品の金額が表示されている。ぼくが「6765円です」と告げると、少女は金額ぴったりに金を出し、「レシートはいらないわ」とぶっきらぼうに言った。
「次はぶっ殺してやるくらいの気持ちでいきなさいよ。ほら、景気づけにこれひとつあげる」
 少女は何種類かの花火のセットをぼくに手渡し、出口へと向かっていった。

 アルバイトが終わり、スーパーの裏口から近くにある川へ向かう。スーパーの表口の前にある大通りでは歩行者天国が開催されており、ぼくが使っている最寄の駅へつくまでにいつもの倍の時間がかかってしまう。時間短縮のために、近くの川を通って駅まで歩くのだ。人もあまり通っておらず、祭りの五月蝿さが最初からなかったみたいだと思っていると、少し先から「あ」と聞いたことのある声が聞こえた。
「さっきの店員さん」
  先ほどの少女だった。
「あ、はい、さっきの店員さんです」
「その自己紹介おかしいわよ」
 でも、と少女が続ける。
「ここで会ったのも何かの縁ね」
 暗闇の中、少女が微笑むのが見えた。
「よろしくね」
「よろしくお願いします」
 ぼくがそう返すと、彼女は眉を吊り上げてレジで会った時と同じように不満そうにした。何か、変なことを言っただろうか。
「それ」
「それ?」
「敬語やめてよ。あなた、同じ学校の先輩でしょ」
「え、何で知ってるんですか」
「だって、学校で見たことあるもの。何年何組?」
「三年二組です」
「ほら、やっぱりね」
「きみは?」
「私、二年八組。あなたの後輩。だから敬語なんて必要ないの」
「ありがとう、じゃあ」
 それならお言葉に甘えて、とぼくは堅苦しいしゃべり方をやめる。
「そうだ、花火、一緒にやる?」
 彼女は手を叩きそう提案してきた。
「ここって、花火してもいいの?」
「だめなんじゃない?」
 それってどうなんだ。ぼくは口から出かけた言葉をぐっと押し込む。
「でも、だめなことするのってすごく楽しいのよね」
 袋から花火を出し、マッチでろうそくへ火をつけ、花火の準備をする。
「きみは、所謂そういう、不良なの?」
「そんなわけないでしょ」
 火をつけると、花火は音を立ててはじける。緑とか、赤とか、弾ける火花がすごくきれいだ。
花火の光のせいで彼女の顔がよく見えるようになる。そうやって見えた彼女の顔はなぜか寂しそうだった。
「不良じゃないけど、でも、学校の制服を規則通り着るのはきらい。だって、みんな同じでつまらないんだもの!」
 彼女は火がついている花火を両手に持ったまま急に立ち上がり、そう大きな声で言った。危うく火の粉がぼくに降りかかるところだった。危ない。
「よく漫画でこういうこと言ってるのを見るけど、みんな同じセーラー服で、襟もぴしっと整えて、スカートも膝丈って、やっぱり変! きみはどう思う?」
 いきなり話を振られて驚くぼく。
「ぼくは制服、いいと思うけどな」
「どうして?」
「だって、そうやって拘束されている分、それぞれの個性が大きく出るから」
「そう」
「でも、ルールを破ってスカートを短くしたりメイクしたりしておしゃれするのも、ぼくはすごくいいと思う」
「そう、そうよね。やっぱり考え方でいやなものも良く見えたりするのかしらね」
「そうだよ。考え方次第だ」
 彼女は納得したらしく、なるほどね、と呟きながらもうすでに何本目か分からない花火に火をつけた。
「ああ、でも、学校の屋上でスカートが風でひらひらする瞬間、きらいじゃないわ」
「そっか。それは爽やかで、夏っぽくて、いいね」
 ぼくがそう笑うと、彼女の薄いくちびるが「ふふ、いいでしょ」と動いた。

 気付いたら結構な時間が経っていた。
 彼女が買ってきた花火は多すぎて、やってもやっても減る気配は無く、最後の方は花火で遊ぶのではなく、消費することが目的になっていた。ぼくはしゃべるのがあまり得意じゃないけれど、彼女は友達がたくさんいてしゃべることがたくさんあるらしく、ひっきりなしにしゃべるもんだから、話が途切れることは無かった。駅前のドーナツ屋がセールをやっているだとか、スーパーカーというバンドが好きだとか、好きなアニメが終わっちゃっただとか、そんなどうでもいいことを話した。好きなバンドの話なんか二、三回は聞いた気がする。まさか、バイト先でたまたま話しかけられただけの少女とここまで打ち解けられるとは。
 花火も最後のセットになった。もう少しで彼女と別れる時間が来る。もう会えないかもしれない。ぼくは少しだけ悲しいとさえ思うようになっていた。別れがくるのは悲しい。いつだってそうだ。例外は無い。だけど、ずっと気になっていることがある。何かがおかしい。この少女は、何かがおかしい。確かめなければ、この、何かわからない何かを。
「最後に聞いていいかな」
「なぁに?」
ぼくは静かにしゃべり始めた。
「ぼくの学校の女子の制服はセーラー服じゃなくてブレザーだし、二年生は七組しかない。屋上だって厳重に鍵がかけられていて、ちょっとやそっとじゃ入れないはずだ」
そして、決め台詞を。
「きみは誰なんだ」
 ぼくと彼女の間に風が通り抜けた。蒸し暑さの中、少しの涼しさが訪れる。聞こえるのは虫の音と水の流れる音、遠くから聞こえる祭りの音、そして花火の音だけだ。ぼくと彼女はお互い何も言葉を発していない。
 先に口を開いたのは彼女の方だった。
「そうよ。私はあなたと同じ学校の生徒じゃないわ」
 川の水で花火の火を消しながら彼女は言った。虫の声の中に、じゅっという音が混ざり、消える。
「でも、ぼくのこと学校で見たことあるって」
「そんなの、でたらめに決まってるじゃない」
 あはは、馬鹿ね。あなた、こんな小さな嘘に気付けないなんて、最高に馬鹿。彼女のそんな声が聞こえてくるようだった。
「それに私、生きてさえいないのよ」
「生きていない?」
「私、もう死んでるの」
自分の耳を疑った。私、死んでるの?一体どういうことなんだ。冗談にしても、いやな冗談だな。趣味が悪い。
「インターネットで五年前にこの町で起こった女子高生飛び降り事件って調べてくれれば、すぐに私のことが出てくるわよ」
「そんなの嘘だよ」
「嘘じゃないわ」
「じゃあなんでここにいるの?」
「え?いちゃ悪い?」
「そういうわけじゃないけど......ごめん」
「そうやってすぐに嘘って決め付けるのよくないわよ。そんなだと女の子に嫌われるわ」
「ご、ごめん」
 少しの沈黙が流れる。
「じゃあ、嘘じゃない。きっと本当だ」
「あなた、そうやって下手に出るからさっきみたいにおばさんにぎゃーぎゃー言われるのよ」
 はぁ、という深い溜め息混じりにそういわれるとぼくも何も言えなくなる。そんな彼女を見てまた「ごめん」と謝ろうとすると、彼女はぼくの言葉を食い気味に「いいよ」と言った。
「私、決めてたの」
 そして、一呼吸おいて彼女は続けた。
「大好きなスーパーカーを聞きながら、十七歳の夏の、しかも夕日がきれいな日の夕方に、学校の屋上から飛び降りて死ぬって」
「どうして、そんなことしようと思ったの」
「理由なんかないわ。強いて言うなら、少し特別な夕方を見てみたかったの。それだけ」
 そう言った彼女の横顔は涼やかで、清々しかった。そんな彼女を見て、ぼくは悲しい気持ちになんてならなかった。人の死に対してこんなに涼やかで、清々しい気持ちになるなんてこれから先ないだろう。その生き生きとした笑顔は、彼女が死んでいると言う事実をぼくに受け入れさせようとしてくれなかった。
 嘘だと思った。けれど、嘘ではないとも思わなかった。ぼくがどう思おうと、彼女が言ったこと、それだけが全てなのだろう。
「私が生きているかどうか、それが嘘かどうかはあなたが決めるといいわ。でも、今から言うことだけは本当よ」
 きらきらと光る彼女の目は、まっすぐ、ぼくの目だけを捉えていた。
「私が最後に見た夕日って、とってもきれいだったの」
 そうか。彼女は、ただ、それが見たくて、それだけで、命を絶った。だけど、彼女にとってはそれだけという言葉で済むような話ではなくて、彼女にとってそれが全てで、それが夢で、生きるための何かだったのだ。ぼくには分からずとも、彼女は、自分にとっての特別なものが何か分かっていたのだ。それならば、ぼくは、ぼくだって。
「きみが見た夕日を、一緒に見たかった」
「かもしれない」と付け足す。すると彼女は、「そうね」と一言、彼女が見たといういつかの夕日の様に微笑んだ。

 次の日、あの川へ行ってみても、出会ったスーパーを探してみても、川の近くの商店街を歩き回ってもあの子の姿はどこにもなかった。それどころか、前日にぼくがおばさんに怒鳴られた時に花火をくれた少女を知っているか、とアルバイト先の、しかも前日にシフトが一緒だった人に訪ねてみてもそんな子は来なかったと言う。しかも、そもそもぼくはあの化粧の濃いおばさんに怒鳴られていないと言うのだ。
 あの子は、最初からいなかったのか。
 あれはぼくの夢だったのか。
 そうか、夢だったのか。
 そうか、そうだったのか、そうか……。
 ぼくは少し長い、おかしな夢を見ていたんだなぁ。

 電車に揺られ、ノスタルジアに浸ったあの夏の夕方を思い出してみた。
 窓の外はそろそろ夜色に染まる頃だ。BGMにはスーパーカー、空はきれいで 、ぼくはまだぼくでいられる。そう思えるこの空気がどうにも愛おしい。
 あの子もこの空を見ているのだろうか。そうだとしたらどんなことを思っているのだろう。そう、少し考えてみたくなった。
 もうすぐ、彼女の夏がやってくる。

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