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トライアングル17

第九章 センチメンタルジャーニーと、一人の夜 3 <side トモ>

 午前七時。

 起きたら、カオルはもういなかった。そんなに寝過ごしたつもりはないから、ずいぶんと早く出て行ったようだ。たぶん、俺が起きる前にと急いで。
「遅くなるからメシは待つな」という、一方的なLINEを残して、まるで逃げるようにカオルは居なくなっていた。
 逃げるように? 何から? 俺から? 本当に最近のあいつときたら……昨夜のことにしてもそうだ。急にああいうことをしたと思ったら、勝手にテンパって飛び出して行った。
 何かを一人で抱え込んで、持て余している。苦しむ様子は中途半端に見せるのに、立ち入らせてはくれない……LINEを返そうとしたけれど、やっぱりやめてスマホを置いた。また、はぐらかされるに決まってる。
 言い訳のようにカオルが置いていった、罪もないバターロールを乱暴に掴んで口に放り込み、アイスコーヒーで流し込むと、それで朝食は終わった。洗濯しなきゃと思いながら、やる気になれなくて、取り合えずソファに身投げした。

 ああいうこと。

 昨夜、ここであったこと。あっという間にあいつに抑え込まれて身動きできなかった。強かった腕。何度も額に押し付けられた唇。
「あいつ、カタくなってた」
 周りに誰もいないのに、思わず声にした口を慌てて押さえる。でも、なんで? あれから何度も考えた疑問が、また頭をもたげる。
 思うに、俺はカオルに甘えてる。過去の傷に、何かのきっかけで触れてしまうと、自分を抑えられなくなって、カオルに際限なく甘えてしまうのだ。だから、あの時もきっと俺を落ち着かせようとしてーー
 違う。
 俺は自分の考えを打ち消した。あの時余裕がなかったのは、カオルの方だ。俺を押し倒したら、カオルは余裕がなくなって切羽詰っていた。だから逆に落ち着かせようとして腕を伸ばしたら、いきなり撥ね付けられた……一年くらい前、委員会室で男の先輩と居残り作業をしていたら、急にその先輩に抱きつかれたことがある。もちろん逃げ出したけれど……あんなふうに、カオルにも何かのスイッチが入ってしまったんだろうか。
 何度考えても同じだった。だってあいつは、アサヒナサクラコとつき合ってるんだから。今日だってきっと、彼女と一緒に違いないんだ。
 朝比奈桜子。俺の従姉妹。


 昨夜、カオルが飛び出して行ったあと、電話がかかってきた。家の電話ではなく、俺のスマホの方だ。
『柏崎です。智行くん、遅くからすまないね』
 弁護士の柏崎さんからだった。彼に頼んでいた件があったのだが、早々に調べてくれたらしい。俺は身構えた。
『この前、確認してほしいと言われてた件だけど』
「はい」
『朝比奈家の桜子さんは、確かに星心女学院の二年に在学してるね』
 やっぱり……無意識にしがみついていた希望は、手に握った砂みたいにはらはらと零れていった。
「そうですか。ありがとうございました」
 柏崎さんには、友だちがそういう名前のコとつきあってるらしい、気になるから本人かどうか確認してほしい、と頼んだ。そしてそれは、九割くらい本当のことで、残りの一割は、カオルが俺にとって何なのかというグレーゾーンだ。
『世間っていうのは狭いものだよね。こんなに近くの学校に通ってたなんてね』
 柏崎さんは、俺の気持ちを代弁するように言った。
「仕方ないですよ……できるだけ会わないように気をつけます」
 実際、朝比奈の家を嫌って家を出ても、結局はこうして狭い空間でジタバタしていたことになる。なんだか、こっけいだ。
『それからね、智行くん』
「はい」
『朝比奈の家には、三年ほど前に男の子が生まれててね。つまり桜子さんの弟になるんだけど』
「ほんとに?」
『ああ、あちらにとっては待望の男の子の跡継ぎ誕生ってわけだ。だから、親戚の人たちが、きみに目をつけることも、もうなくなると思うよ』
「そうだといいけど」
『もちろん、これからも何かあったら何でも言って。それから、跡継ぎ誕生のことは岸本さんにも報告しておきます』
「お願いします。それからあの……僕が桜子のことを調べて欲しいって頼んだってことは父さんたちには……」
 わかってるよ、心配かけたくないんだろ、と優しく言って、柏崎さんは電話を切った。彼は、日本に残った僕たちの、いわばお目付け役だ。父さんの大学の後輩だが、子どもがいないからと言って、ずいぶん俺とカオルのことを可愛がってくれた。年は離れているけれど、兄貴ってこういうかんじなのかな、と思う。
 カオルと桜子が接近したのには、何かわけがあるはずだ。いくら世間は狭いといっても、こんな偶然があってたまるもんか。
 俺たちは、どこで間違ったんだろう、と思う。歯噛みするような悔しさだ。カオルが、ちゃんと桜子のことを話してくれていたら、いや、俺がちゃんとカオルの話を聞いていれば……でも、そうできない状況を招いてしまったのも、自分たちだ。巻き込みたくないのに、と哀しくなる。どうしても俺はあの家から離れられないのか……
「トモユキくん」
 名前を呼ばれて、はっとして我に返った。
 坂崎春菜が、テーブルの向こう側で俺の顔を覗き込んでいる。目の前には半分くらい氷が溶けかかったコーラのグラス、英和辞典とテキスト。俺はシャープペンを握ったままだった。
「どうしたの?」
「あ、いや、ちょっと考えごと」
 俺は瞬時に笑顔をつくって貼り付ける。俺にとっては得意なことだが、困ったことに、彼女は簡単に騙されてはくれない。何か言いたそうな顔をして、でも、何も言わない。一緒にいるようになってまだ日が浅いけれど、俺は彼女のそういう、人の気持ちに聡いところとか、そのくせ気を使うところとかーーが少し心苦しい。決して嫌ではないのだけれど、すごく彼女を傷つけているような気がしてならないのだ。だから、彼女の前では正直でありたいと思う。なかなか、難しいことではあるのだけれど。
「昨日、ごめんな」
「昨日?」
「急にあんなことして」
 坂崎の顔が赤くなる。俺がこういうことで女の子に謝るなんて、多分初めてだ。慣れない自分に照れるけれど、そんな自分は嫌いじゃない。
 昨日、坂崎が「今日はあたしがトモユキくんを家まで送る」と言った。俺がふさぎがちだったので、心配したのかもしれない。
『そんなの……いいよ』
『いいの。送らせて。でないと』
『なに?』
『なんだか、どこかへ行っちゃいそうなんだもの』
 そんなに、今の俺は情けないのか? 愕然としながら歩いていたら、自分がこうやって坂崎に甘えていることとか、こんなのでいいのか、と言う気持ちで心の中がいっぱになってしまった。だから、坂崎にキスをした。そうしたら、何かわかるかもしれないと思ったのだ。好き、という気持ちからではなく、そんなことに彼女を付き合わせるのはよくないに決まってる。だけど、俺はそういうかたちでしか、自分の心を計る術を持たなかった。そして結局、彼女を泣かせてしまって、送られたはずの俺は、彼女を駅まで送って行った。
 坂崎は何で泣いたんだろう。驚いたのか、嬉しかったのか。それすらもわからない。そして今、俺はそのことよりも、カオルと桜子のことが気になって仕方ない。その気持ちを認めねばならなかった。
 時刻は、午後二時をまわっていた。


 午後七時。
 カオルは夕メシはいらないと言っていたから、一人じゃ何も作る気にならなくて、ハンバーガーを買ってきた。テレビを見ながら、味気ない食事をすませたら、もう何もすることがない。
 カオルは何時に帰ってくるんだろ。遅くなるってどれくらい? 桜子と、何をしてるんだろうーー考えてると気持ちがつまるので、夏原に電話をした。
『夏原、今どこ?』
『家だけど。なんで?』
 気楽な夏原の声がする。電話越しにテレビの音が聞こえた。俺は思い切りカマをかけてみる。
『なんだ、カオルと一緒じゃないんだ?』
 一瞬、ほんの一瞬だけど、間があった。この分じゃカオルは夏原に隠蔽工作を頼んではいないようだ。
『あいつ、朝出てったきりだから、誰と一緒なのかもわからないし、何時ごろ帰ってくるのかと思って』
『そんなこと、カオルに直接聞きゃいいじゃん』
 夏原はちょっとムッとした口調で言った。
『そりゃそうなんだけど……』
 自業自得、夏原に指摘されて、ミイラ取りがミイラになってしまった。
『ああもう! お前らってややこしい!』
 声は荒げてるけど、夏原はきっと、それほど怒ってはいない。
「ごめんな」
『あ』
「俺らって、お前に甘えてるよな」
『……』
「ごめん」
『トモが謝ると、調子狂う』
「なんだよそれ」
『……カオル、たぶん一年のとき同じクラスのやつらと一緒だと思う。どっか行くとか、そんなこと言ってた』
 愛してるよ夏原、と言ったら、カオルに言ってやれ、と怒られた。
 言えないよ、そんなこと。お前に言うみたいに、カオルに冗談でそんなこと言えない。夏原はきっと、俺から電話があったことを大慌てでカオルに知らせるんだろう。


 午後十時。
 カオルは帰って来ない。どこまで行ったのかわからないけど、電車がなくなるのに、と落ち着かない。だから、我慢しきれずにカオルにLINEをしてしまった。努めて平静に、事務連絡のように。けれど、たった二行の文を打つのに、すごく時間がかかってしまった。なのに、返事が返ってきたのは三十分以上たってからだった。

 ーー連絡しなくてごめん。電車がなくなったから今日は適当に泊まる。カギかけて寝ろよ

 気が抜けた。
「泊まんのかよ」
 思わず口から零れた独り言は、情けないほど頼りないものだった。
 俺は、何がこんなに辛いのか。カオルが俺を避けていること? 桜子と一緒にいること? 俺と朝比奈の関係に、カオルを巻き込んでしまったこと?
 それは全部だと思う。でもそれ以上に大きいのは、カオルに置いて行かれたことだ。ひとりにされたことだ。

 午後十一時。
 一人の夜は、まだまだ明けない。


トライアングル18に続く




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