見出し画像

【ぼちぼち往復書簡】家族で食卓を囲む幸福を小さいとみるか、大きいとみるのか問題 From すみこ

ようこちゃん。おじさんの言葉、深いね〜。

最近わたしは毎日、親と一緒に食卓を囲むわけです。

その昔、両親が行なっていたであろう、美味しい料理をテーブルに並べて、今日の事柄を話題にするということを、いまは自分がやっている(親に花を持たせることは忘れないけどね。)のが、なんだか不思議な感覚よ。

季節感とか、旬の食材とかを吟味し、ここ最近のメニューとのバラエティを考えたり、家族のそれぞれの好みを考慮したりしながら献立を考えて、母のサポート役として台所に立ち、そして思ったように料理が出来上がる。
弟の帰宅時間に合わせていい感じに出来立てのメニューが整って、「美味しいね」と言いながら家族揃ってご飯を食べる。ここにはある意味の達成感があるのだよ。それも毎日。
この歳で、こうして食卓を囲めることは、もしかしたら奇跡みたいな貴重なことなのかもしれないと感じる瞬間もあるの。これは幸せなことだよね。

だがしかし、だがしかし、なのよ。
この達成感というのは、心の中で「うん」と頷く程度の達成感。力強くガッツポーズ並みの達成感じゃないのが問題。
これは幸せな瞬間だわ。と認識するし、ほわんと幸せ感を胸に抱くけど、めちゃくちゃ小さいの。「ちっちゃい」と声に出しちゃうくらい、小さい。

何と比べてるのかな?
そうねー、ミロンガで踊り疲れて深夜にベットに倒れこむときの「あー幸せ〜」とか、南米の青空の下、カフェのテラス席でレモネードを飲む「あー幸せ」とか?

でもね、ブエノスで他人を相手に癒しの仕事をしながら「自分の家族のケアもせずに、こんな異国でわたしは何をやっているのだろうか・・・」と感じた虚無感を、仕舞い込んだ引き出しから取り出してきてみると、この食卓の幸福感は大きいよね、と思い直したりもする。秋の空よりコロコロ変わる幸福感。

本来、幸せ感というもの自体がポジティブなのだから、小さいも大きいも、問題というにはあまりにも大げさだけれどもね。「ちっちゃい」と呟いてしまった後のがっかり感を自分で持て余してるという感じかな。

今日は何もしない幸せを手に入れようと、弟をカレー大臣に任命したら、朝から仕込みを始め、午前中から既にカレーの香りの我が家。今夜はさぞかし美味しいカレーが食べられることでしょう。

ようこちゃん、風邪、お大事にね。季節の変わり目、いつにも増してセルフケアを心がけてね。

すみこ

読んでくださり、ありがとうございます。 サポートのお気持ちとても嬉しいです。ありがたく受け取らせていただきます。感謝💕