多様性を認めるべきかどうか

多様性を認めるべきだと叫ばれているがどうも息苦しさを感じることが多いのはなぜだろうか。
世の中の多様化が進んでるのは最先端のごく一部であって、自分の所まで降りてきていないからだろうか?
とはいえ、私自身は特別に多様性を認めてもらいたい立場にいるわけでもないのだが。

どうも「多様性を認めろ」という圧が強い気がする。
多様性を認めるなというつもりは無いのだが、「多様性を認めろ」という言葉を振りかざして来られると、まるでジャンケンで拳銃を出されたような気分になる。

例えば好き嫌いの話をすると、自分が好きなものを嫌いな人もいるし、嫌いなものを好きな人もいる。
それだけの話なのに、なんだか「好きな人だっているんですよ?」と暴力的な多様性を認めろ論が出てきて波風を立てそうな気がしてちょっと言いにくい。

本当に多様性が認められてるのなら、好きな人も嫌いな人もいる、終わり。で済む話だし、もっと極論をいえば「Aが好きとか言ってるやつ頭おかしい」「多様性なんかクソ喰らえ」「男は外で働き女は家にいろ」「マイノリティは引っ込んでろ」って言ってる人でさえ存在する事を許されるべきなのだ。
もちろん内容の是非とはまた別の話だが、存在することは許されて良いはずだ。これも多様性を認めた結果であるはずだ。

しかし「多様性を認めろ」「多様性を認めないこいつは悪者だ、時代遅れだ、旧人類だ」という画一的な論調はいかがなものかと思う。
「多様性を認めろという画一性」を求めるとは、なんとも皮肉な行いではなかろうか。

しかしながら、そんな暴力的な画一性を振りかざしてくる奴らの存在も許されるのが、本当に多様性を認めるということであるわけで…うーん。

#多様性を考える

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