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若い人々の死にぼくはやりきれなくなる

今朝テーブルに置いてあった新聞にひとつの記事がのっていた。生活リズムからして平日の朝ごはんはたいていひとりなので、ぼくはよく何かを読みながら食べる。そんな感じで、その新聞もなんとはなしに手にとった。

見出しに「山下弘子さん、三月に亡くなる」とあった。山下弘子さんは大学在学中だった十九歳のときに肝臓がんと診断され、余命半年と宣告されたという。しかし今年の三月に二十五歳で亡くなるまで、彼女はブログで自らの生き方を発信し、愛する恋人と結婚し、その人と世界30カ国以上もまわり、本も執筆し、落ち込むことはあってもとにかく前向きに、ひたすらに生きた。その生き方が、離れていても同じように必死に生きている人々の大きな力になったと書かれていた。

こうやってぼくと年の近い人の死を知ると、ぼくはいつもやりきれない気持ちになる。表現しようのない感情が胸にぐっと押し寄せてくる。山下弘子さんに近しい人、そしてだれよりも彼女がいちばんそうだとは思うのだけど、とても哀しいと言うだけでは表せないものをぼくもぼくなりに感じる。

記憶につよく残っている事故がある。いつ頃のことだったかあまり覚えていないのだけど、おそらく二年前くらい、スキー場に向かうバスが山道で暴走し、ガードレールを突き破って道からはずれ、のっていた大学生が何人も亡くなった。ぼくはあの事故を見たとき、ものすごいショックを受けた。言葉が出なくなってしまうような、あるいは体のなかで何かがさっと引いていくような感じがしたのをいまでも覚えている。

もちろんそれだけではない。ほんとうに滅入るような頻度で、小さな子どもがふとしたことで亡くなったり、たくさんの若い人々が紛争に巻き込まれて亡くなっている。そういうニュースを目にするたび、ぼくはどうしようもなくやりきれなくなる。だから何なんだと言われても言葉が続かないのだが、とにかくそういうことがぼくにはつよく響く。

ぼくはいま二十一歳だ。今年で二十二歳になる。ぼくはいままで近しい人を亡くしたことがない。だからそれがどういうことなのかまったく見当がつかない。それに、若い人々の死を知って、それならぼくは彼らの分まで生きるように生きなければと思うことがぼくにはできない。彼らが生きようとしていた人生は、あまりにも重大すぎる。それを思うとぼくは立ち尽くしてしまうより他にない。自分が底なしに無力なように思える。

ぼくには何もできない。励ましの声をかけることも彼らの分までと思うこともできない。とにかく自分の人生を生きるしかない。だからぼくは、やりきれなくなる。

どうもありがとう、励みになります。