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また恋に落ちた、という話

まったく頭が回らない。運動したわけでもないのに心臓が高鳴っている。胴の真ん中でぎゅっと濃縮された何かが熱をもっている。どうしても気が散ってうろうろして、やっと座っても頭のなかの自分はうろうろしたまま一向に腰を落ち着けてくれない。どう考えても、これは恋に落ちているとしか言いようがない。

というのも、わりに最近英会話学校の先生にすっかり惚れてあえなく玉砕した身なので(ちょっと前のnoteに書いたやつ)恋の感覚がまだからだに残っている。その感覚、手ざわりがいまのそれに非常に相似しているのだ。瓜ふたつだと言っても過言ではない。すべてが手につかなくなるところまで出来過ぎなくらい似ている。ぼくのまわりに座っているほかの客は、本を手にとったかと思えばノートを開き、ペンを持ったかと思えばパソコンを開き、キーボードを打ちはじめたかと思えばイヤホンをはめて音楽を選んでいるぼくのことを「何をやっているのだこいつは」と訝しげに思っているのかもしれない。それは考えすぎか。ううう、ちがった、そんなことはまったくもってどうでもいいのだ。そこに座っている男の足のサイズくらいどうでもいい。

この数日わけあってぼくはnoteを投稿できなかった。その「わけ」の間に、いままで交錯することのなかったいろいろな人々に出会った。ぼくよりも若いひとから、すでに働いている年長のひとなど、普段どおりに生活していればまず会うことのなかった人々とたくさん話をした。人が恐いくせに人の話を聞くのは好きだから、ぼくとちがう興味を持っていたり、ぼくの知らない世界に生きていたり、その人だけの情熱をもっていたり、思いきって悩みを吐き出したりする彼らと時間をともにすることは、ぼくを温かいもので満たしてくれた。色彩にあふれた人間と時間と空間がそこにはあった。

彼女はその端っこにいた。遅れて到着したぼくに、彼女は最初に話しかけてくれた。何をやっているのかとか、どういう理由でそこにいるのかとか、そういうことをお互いに伝え合った。そのときは、別段強烈なものは何も感じなかった。

それでも話をするにつれて、だんだん惹かれていくのが自分でもわかった。どうやらぼくは、話をしている女の人の声や表情や、所作、言葉に、可愛らしいところやうつくしいところを探すくせがあるみたいだった。彼女と話している間にも「あ」と思う瞬間がよくあった。

その上、彼女はやさしかった。ぼくは自分にやさしく接してくれる女の人にめっぽう弱い。ぼくのがらんどうの心は、つねにだれかを希求しているから、積み重ねる会話にやさしさをたしかめると精神はたまらずに号泣して、その人に救いを請いはじめる。これがべらぼうに面倒くさい。これをどうにか制御しようとすると、ぼくの意思とはまったく無関係に外面がつめたく固まってしまうのだ。それがばっちり出た。最悪だ、と思った。「チクショー、こんなのやってられるか!」と思った。

だけど、彼女はそれにもかかわらずぼくに声をかけてくれた。動揺してしまってうまく気持ちを伝えられなかったけど、心の底からうれしかった。家に向かってのびる夜道をゆらゆら抜けていく間、ぼくは "Archie, Marry Me" を聴いた。どうやら、恋に落ちたみたいだった。

次に会うときがいつなのかわからないけれど、そのときに人間としてまともな表情で話せることを願うばかりである。がびがびに固まったぎこちない微笑を顔面にはりつけた自分しか想像できないので、今日から表情筋をきたえようか。


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