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醒めない眠り

何年も前、ハワイ島に行ったときに装丁が綺麗だというだけで買った本があって、最近それを読んでいる。開くまではいつ何処で買ったのか忘れていたのだが、読んでいるうちに記憶が蘇ってきて、ショッピングモールの角にあった本屋でそれを買ったことや、その帰り、窓のないシャトルバスの中から薄紫色の空を眺めたことなど、断片的な情景が泡のようにぽつぽつと思い出された。そのうちのひとつが、マラサダを買いに行ったことだった。

マラサダは砂糖をまぶした揚げパンで、ハワイでは(おそらく)ポピュラーな食べ物だ。その旅行のとき、ぼくは小学生か中学生くらいだったのだが、ひとりで何処かに行ってみたくて仕方なかった。そこで、家族がプールかどこかで遊んでいる間に、ガイドブックに載っているマラサダの店に行ってみようと思った。

記載されている行き方に沿って、ぼくはバスに乗った。バス後部、二人掛けの窓側に腰を下ろし、細く息を吐く。死ぬほど緊張していた。手足はガチガチに冷たくなって、心臓は喚き散らすように暴れていた。周囲の乗客が一斉にこちらを振り返るような気がしてならず、顔を背けるように窓の外に目をやる。バスは揺れながら大通りを走る。建物の並びが押し流されるように後方へ消えていく。ぼくは平静を取り戻そうとしたが、うまくはいかなかった。極度の緊張に苦しみながらも、その緊張を保つことで持ちこたえていた部分があったからだった。もしあのとき緊張を解いていたら、ぼくは気を失って失禁していたに違いない。何をどう意識したところでもう無駄だった。当時の情景が目に浮かぶ。ぼくは半袖短パンにビーチサンダルという格好で、リュックを前に抱え、絶望的なまなざしで窓の外を眺めている。薄く開いた唇からは help me…...と死にかけの羽虫みたいな声が漏れている。

そのときバスが停車し、隣に高齢の女性が座った。目的のバス停まではまだ距離があった。どこに行くのかと彼女がぼくに訊ねる。ぼくは握りしめていたバスの路線図を開いて目的地を指し示した。捻り出した言葉は唇のあいだで崩れて消えた。あと○つ先だね、と彼女が言う。

しばらくしてその女性は降りていった。その際、彼女はドアの傍でこちらを振り返り、あと○つ先だからね、と再び念を押すように言った。バスは再び走り出した。高まり続けていた緊張はピークに達していて、ぼくはパニックを起こしかけていた。そしてついに耐えられなくなり、目的地の二つか三つ手前のバス停で降りた。通りにひと気はなかった。曇った空がやけに眩しく、目の奥が鈍く痛んだ。

見慣れない色と形の信号機をいくつもくぐって、ぼくはようやく店にたどり着いた。店内はじめっとしていて薄暗く、カウンターの上に掛かっているメニュー表は、じっと目を凝らしても何が書いてあるのかよく分からなかった。順番を待ち、無愛想な店員に注文を告げる。お金を払い、マラサダの入った紙袋を受け取る。

それからぼくはホテルまでの道のりを歩いた。バスには乗らなかった。ホテルに戻ると、家族はテラスで食事をとっていた。油の斑点が染みた紙袋を手渡し、荷物を置いてプールに向かう。足の裏が熱くほてっていた。プールに足を浸すと、サンダルの鼻緒が擦れた跡に塩素が沁みた。ぼくはしばらくそのままでいた。達成感とまではいかなくても、自分を勇気づけてくれるような何かが胸に湧いてくるのを、うっすらと期待していたのだった。しかし、感じられたのは混じり気のない疲れだけだった。ぼくは部屋に戻り、ベッドに入った。そして一瞬で眠りに落ちた。リネンの涼しさが心地よかった。

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