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推しという免罪符に、かつての推し活勢は冷ややかでいる


"推し活"がブームとなって久しいが、かつて推し活に邁進していた私は今、特に推し活をしていない。

中高の、まだオタクがクラスで迫害をされていたころは、立派な推し活をしていた。なんなら、コロナ禍も、やることがなさすぎて推し活をしていた。

しかし、今現在は、

誰かの手によって作られたものを享受し、消費するだけの「推し活」を虚無感を覚えるようになっているからだ。

缶バッチで鞄を埋め尽くすのは本当にやりたくてやっているのか?同担へのマウント行為やオタクとしての「様式美」を守りたいがためのパフォーマンスではないのか?好きな作品ですと言いつついつも最新のバズっているコンテンツのコスプレばかりするのはなぜ?
SNSで見たものの感想を呟く、と言う道理のはずが、いつの間にかSNSで呟きいろんな人に見てもらうことが目的化したオタク活動となってないか?....etc...

意地悪なことを書いているが、私自身それを自覚してしまったことがあるのだ。
またジャンルから離れた時、手元に残る大量のグッズを前に、「で、何?」という気持ちに襲われることがあった。

また、推し活市場はどうやら狙い目だと気づいてしまった大人たちの手によって「推し活グッズ」「推し専用〇〇」などが次々と生み出され、私たちは自分たちの創意工夫で何かを生み出さずとも、既製品のそれらを購入すれば事足りるようになってしまった。資本主義万歳。

その点、いまだに同人創作の活動、何かを制作する行為は気持ちよく行うことができている。もしこのキャラクターがこうだったら、ああだったら、と自分の脳裏にある妄想が止まらなくなり、これはアウトプットしないと損だぞー!という衝動に駆られてペンを取る、あの感覚は尊い。


ましてやpixivや個人サイトに絵や小説やらをアップし、無料で閲覧できるようにする行為は、資本主義に踊らされた今・現在の推し活とは少し異なり、根本的なオタクとは何か、好きなものへの情熱を思い、少しだけ胸が熱くなる(まあプラットフォームの利益ではあるのだが)

それから、生身の人間を推しとして、コンテンツ化し、消費することにも大変な危機感を覚えている。私たちは安全なところからやいのやいの言い、己の欲望をネット等であけっぴろげにし、推しのスキャンダルや言動がちょっとでも言動を謝ると「失望した」「もう推せない」と手のひらを返す。(※性暴力など、犯罪は別ですが!!!!)

しかし、推しもまた、自分と同じ血の通った愚かな人間で、自分の思う通りになんて動いてくれない。私は約2年前、世間が騒然となったとある件で、生身の推しには二度と会えなくなり、そこで冷水を浴びせられたように酔いから覚めた。

あ、推しも人間なんだ。私と30秒、オンラインお話会でニコニコ話してくれたのは、お仕事だったのだ(当たり前体操)と。こちらが勝手に彼を神格化していたことを思い知る体験だった。

いま、私は推し活を休み、代わりに舞台作りや新しいお店の開拓など、自分で行動して生み出す趣味に注力している。なんでも「公式」が「供給』してくれる歯応えのないものばかり差し出されて食べていると、自分で咀嚼する力や食材を集める力が衰えて、ある意味バカになるかも、と思ったのだ。


いずれまた、ヘルシーな距離感で「推せる」ものが現れたら推したい。だがいまは、強いて言うならば死ぬ瞬間まで付き合い続けて行かねばならない自分自身を「我が一生推し」として、監視し、注視し、大事にしていきたい、と思うのだ。

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