美術館へ行く時、有名作品の”確認”作業になっていないか
先日、新宿・SOMPO美術館で行われている「プチ・パレ展」へ行ってきた。
きっかけは、定期的に聞いている日仏PODCASTで展示会が紹介されていたこと。
たまには美術館という空間に足を運んでみるのもいいなあ、
最近は完全予約制でもなくなったしなあ、と
病院の検査の帰りにふらっと立ち寄ってみることにした。
この美術展はスイスにある現在は閉館している美術館のコレクションで、印象派~エコール・ド・パリまでのフランス近代絵画を中心に展示しているという。プロモーションで紹介されている画家のうち、ルノワールとユトリロの名前だけは知っていた。
美術に明るくない人に、知ってる画家の名前を挙げてくださいといったら、まあ「ゴッホ」「モネ」「ルノワール」「ピカソ」あたりが出てくるのではないだろうか。中でも異常にゴッホ人気は高い気がする。なんでだ。かくいうわたしも、小さい時にゴッホの絵本を見て、絵画に関心を持った。
ちなみに私は絵画に詳しいわけでも何でもない。
一応フランス文学の専攻だったのでフランスの美術史のようなものもかじった。○○ismといわれたら、それがどんな感じの絵で、例えばこの人、と言えるレベルだが、知識は薄いので展覧会は「おお!この絵画いいな!」と直感で楽しんでいる。ちなみに至近距離で見た後、数歩下がって全体を見るのが好きだ。
展示会は本当に大満足だった。
一人で入館し、静かで薄暗い館内で、作品と自分との一対一の時間を楽しむのは、普段過多な情報に飲み込まれて疲れている自分にとってはとても尊く、貴重な時間に思えた。
特におおっ、と思ったのはユトリロの絵、
ユトリロのパリの風景をみていると大学最後の秋に訪れた卒業旅行の楽しかった思い出で胸がきゅぅ、となる。ノートルダム大聖堂の絵の前では感情が溢れてくるのを感じた。
卒業論文のためにノートルダムに上ったこと。塔の頂上から見た景色と、
(ユゴーも同じようにこの高さまで登って、そこでみたガーゴイルやパリの街からはあの小説が生まれたんだろうか)、と思いをはせたこと。階段がひたすらきつかったけれど、上り終えた時に嬉しかったこと。
そして、火事で焼けてしまったこと。
ほかにも、寒々しいパリの風景の絵たちは、見ていると楽しかったパリ旅行の思い出が浮かんでついニヤニヤしてしまった。
また、どこの派閥にもたいていは多くの裸婦画があったのだが、皆ちゃんと体に肉が付いていて、お腹には脂肪が垂れ下がっていて、そのことがなぜかとても安心感をもたらした。
日々触れているアニメの絵、細くてくびれたモデルやアイドルはたしかに美しい。
というかメディアで目にする女性の裸は全部そうではないだろうか?(脂肪のさがった女性の見かけることがあるとすれば体型で笑いを取りに行く芸人の温泉ロケ等の企画か、ダイエット企画の番組の「BEFORE」くらい?それは偏見?w)
けれど、「いや、人間の裸ってちゃんと描こうと思ったらこうよな…」という”盛らない”裸婦の絵画がたくさん展示されていて、しかも画家たちはそれを美しい~!!と思って描いているのだよな、、ということ。
特に、アンドレ・ロートという画家の「酒に酔った女」という絵が、(これは飲み会翌日のおれたちの姿では‥‥)となって特によかった。女が裸で、はしたなくだらしないポーズで酒片手に寝転んでいた。
そうだよ人間本来、こうなんだよな。
腹筋が浮き出た細いウエスト以外は死!!と、どこか強迫観念にかられていた自分は、脂肪が付いてても、いいんだ。と裸婦たちに謎に勇気づけられた。
ありえない等身の萌え絵もいいけど、日常そればかり見ていたらなかなかに視野が狭ってしまうだろうなと思った。
モイズ・キスリングという方の「赤毛の女」という絵も印象的だった。赤毛でぱっつん前髪の女性が真っ黒な大きな瞳でこっちをみてきて、強烈だった。一枚の絵のはずなのに怖かった。
他にも印象に残った絵がある。
今、リストを見ながらなんとか思いだしており、ああ、こんなことなら入り口でペンを借りてメモを取りながら鑑賞すべきだった…
【私的・印象に残った作品】
・ラオフィル=アレクサンドル・スタンラン「二人のパリジェンヌ」
・ラオフィル=アレクサンドル・スタンラン「純愛」
・ラオフィル=アレクサンドル・スタンラン「猫と一緒の母と子」
↑私相当この画家きにいったんやな‥書いてて笑ってしまった
・ジャン・ピュイ「画家とそのモデル」
・フェリックス・ヴァロットン「身繕い」
さて、美術展は「印象派」の部屋がなぜかやたらと混んでおり、フォービズムのあたりから人がまばらになり、キュビスムやエコール・ド・パリの部屋はかなり落ち着いていて、誰にも遠慮せずいつまでも好きな絵を眺めていられる環境だった。やはりみんな、なじみ深い印象派がすきなのか。
そして出口は、写真OKにされているSOMPO美術館所蔵のゴッホのひまわりと、ルノワールの2点のおかげで、人だかりが出来ていた。
自分も順番待ちをして、写真を撮ろうか迷ったが、ある理由から撮らなかった。
美術展は映画や演劇とは違い、鑑賞する対象や滞在時間、何をどのくらい見て、見ないのかはお客さんに完全に委ねられている。
この日SOMPO美術館に来ていたお客さんは皆好きなように、真剣に、好きな速度で絵画を見ていたのだが、
どうしてもその中に「注目を集める絵」と「人気のない絵」があるのが見られた。そしてそれは画家の知名度に大きく左右されているのでは?とも思った。
その日、私はいつの展覧会だったか、ルーブルかオルセーか日本の美術館だったか忘れたが、強烈に違和感を感じたとある美術館での風景が思いだされた。
あれはゴッホ、あれはモネ、と超有名人気作品の周りに黒山の人だかりができており、みなカメラを構えてバシャバシャと撮影。
撮り終わったら、はい、じゃあつぎはあれとあれね!!とせわしなく目当ての絵に向かって向かう大勢の人。
まるでスタンプラリーだな、と感じつつも、自分も周りの空気に飲まれ、あれもこれも抑えなきゃ!みなきゃ!と駆り立てられ、「あ!これは有名な絵だわ、見ておかなくちゃ!」と一緒になってカメラでバシャバシャやっていた気がする。
ところが、次第に「わたし、なにしてるんだろう」という気分に襲われた。
わたしはここに、絵画を楽しみに来ているのだろうか?
それとも、”あの有名作”が実在したということを「確認」する作業にきたのか?
カメラで絵画を撮るためにきたんだっけ?
カメラに収めた美術品は後で見返してよい記録にはなるだろうが、生身のそれと対峙したときの感覚まで、画像に閉じ込めておけるの?
有名だから、みるの? 無名の画家は、スルーしていいの?
これは、どの絵画を良いと思ったか、美しいと思ったか、を自分の心で判断できていないということに気が付けた、よい体験だった。
書きながら思いだしてきたが、ルーブルで「モナリザ」の写真を人ごみの中で必死に撮っていた時にも、同じ感情になった気がする。
あの有名なモナリザを、遠くから、ちっこい写真に頑張って収めて、「いや~ついに生でみてきたなあ」と納得したいだけなんじゃないか?
こんなに広い、一日回り切れないほどの展示に囲まれた中で、みんな一目散に同じ展示に群がってていいのか?と。
その体験以降、わたしは目玉の展示物以外も自分に刺さるものがないか、自分の感性で鑑賞するように気を付けるようになった。今回の展示会も、なるべくそう心がけた。全然知らない画家の絵も、くまなく見るようにした。
そしたら、上記のような刺さる作品にいくつも出会うことができた。
「写真OK」といわれても、よっぽど撮りたい!とならない限りは、撮影しない。いつの間にか、撮ることが目的化してしまうからだ。
「有名な絵=素晴らしい絵」とは限らない。
サロンで評価されたとかいくらの値が付いたとか、ぶっちゃけ2022年の現代日本の26歳美術素人にはわからない。
むしろ誰の注目も浴びていない、小さな額縁の中に入った絵が、自分の心に響いたりする。
誰だこりゃ?知らんな‥という画家の絵が、自分にアプローチしてくることもある。
目玉の展示以外の名もなき展示が意外とよかったりする。
美術展はこれが面白さだと思う。
目玉の展示物を用意し、お客さんを集めたい。これを目当てに来てほしい、という展示者側の意図はもちろんありつつも、現地でどの作品に心惹かれたかまで、プロモーションに引っ張られなくてもいいのではと思ったのだ。
また時間が出来たら、なるべく周りの雰囲気に流されずに鑑賞ができる平日を狙って、美術館にいきたい。
P.S
これは出口で買うか散々悩んだ挙句、もう手に入らないかもよ?という脳内の囁きに降参して購入したユトリロのノートルダム寺院の書かれたバッグです。エモすぎる。こんなんほしいにきまってるよ…
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