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梅雨の花

紫陽花は雨の日に見るのが最も美しい。
今年の梅雨は平年よりも早く訪れた。梅雨の晴れ間が長く続き、このまま夏になれば紫陽花たちも役目を終える。しかし洗濯物を干す日を選ばなくて良い日はいつまでも続くわけではなかった。

「明日から2週間くらい雨の予報ですよ」
「途中で連続雨量が止まれば徐行もないだろうけど」
「晴れ間が2日くらいあればいいですけどね」

電車の乗務員はいつも天気の話をしている。

「天気の良い日は仕事なんかせずにドライブにでも行きたいよ〜」
「仕事中雨降られると制服びしょ濡れだわ最悪」

どんな天気でも乗務員たちは文句を垂れる。そういう性分なのだ。



退勤点呼を終わらせ、職場の喫煙所で助役と煙草を吹かしていた。

「明日天気やばいんでしょ」
「まぁ明日の午前中が山場かな」
「それを乗り越えたら梅雨も明けますかね」
「明けないにしろ、酷くはならんだろ」
「まぁその後は台風様御一行ですかね」
「いらっしゃるかな。今年も」
「今年はまだ皆さん顔を出してないですけど、いらっしゃるでしょうね。まぁ兎角明日も仕事なんで、震えながら天気予報見ときますよ」
「はいはい、お疲れさん」

明日からとは言ったものの、既に自社線の他の地域では甚大な被害を受けていた。川の氾濫、倒木による車両破損など、自分が当該列車の乗務員だったらと考えたくもない現状が同僚たちを襲っていた。幸い私が担当する乗務線区では今のところ目立った被害は出ていなかった。一部の徐行も1日も経てば解除となっていたほどである。



「言うほど雨降ってないっすね」
「まぁ大丈夫だろ」

翌8時私は休憩中の助役と共に職場の喫煙所にいた。災害級の雨に注意という予報とは裏腹に普段と変わらぬ雨がしとしとと街を濡らし続けていた。何事もなく今日も終わるだろうと煙草の箱の中を覗き込んだ。雨の日は本数が減る私にとっては十分な本数が入っていた。

出勤点呼では自社線内では被害が出ていること、現在担当線区は異常が無いことを告げられた。

雨の中の乗務には嫌な思い出があった。それは車掌時代、雨規制がかかりコンビニすらない駅で5時間以上営業列車に閉じ込められた思い出だ。人身事故などの異常時を交わしてきた私も雨にはめっぽう弱いようだ。ワンマン列車で車両にずっと待機させられるのは勘弁だ。車掌の時は運転士が必ず一緒に居たので、そんな時も運転士と喋っていればなんともなかった。まさか自分が運転士になった時、車掌が全くいない地区に配属になるとは思ってもいなかった。

出区点検から始まる今日の仕事はやはり雨がつきものだった。びしょ濡れになった制服を車両の冷房を使って乾かしながら乗務を続けた。

「さて次は遠出やね」

次の列車は片道2時間の旅。
途中の駅から窓が乾いてくる。どうやら県北は雨が止んでいるようだ。乗り継ぎ後は出区点検だから丁度いい。そう思っていた。

「異常なしです!こっちは晴れてるんですね。拍子抜けですわ」

「暑いくらいやな。異常なし了解」

乗務交代駅に着くと1週間は見ていなかった青空が広がっており、夏の太陽が顔を覗かせていた。線路脇に咲く紫陽花は先ほどまで降っていた雨を吸い込み、水滴を垂らしていた。

「あちい…」

出区点検先の車両基地まで傘を刺すどころか汗を流すことになるとは出勤する時には想像もしていなかった。雨を拭うはずのタオルを出し、出区点検を急いで終わらせた。

入換が終了し、ドアを開けお客さまを迎える。通勤通学時間の一歩手前で始発駅を発車するこの列車は途中まではほとんど乗客がおらず、お年寄りが数名始発駅から乗ってきただけだった。

朝、一部遅れていた路線は定時に戻ったらしく、遅れもなく行き違い駅まで順調に進んでいった。その駅では9分の停車がある。

「出発停止」

信号のR現示を指差しブレーキハンドルを非常位置へ。今日は臨時列車との行き違いがあると分かっていたため、案内放送を入れた。

しかし行き違い列車が到着するはずの時間になっても一向に構内の踏切が鳴動しない。遅れているのか?その時はその程度の認識しかなかった。

すると業務用のデバイスから着信音が聞こえた。

「指令からだ。珍しい…」

少し嫌な予感がした。私が今乗務している線区では直接指令から連絡が来ることは殆どなく、管轄している駅長から連絡が来ることになっている。

「お疲れ様です。水無駅停車中の207D運転士です」
「お疲れ様です。高幡指令です。207D運転士さん、連絡事項があります。現在2駅先の葉月駅でポイント不転換が発生しています。そのため207D運転士による確認と復旧作業を予定しています。また水無駅は所定どおり発車し、葉月駅場内信号機が停止現示の時は再度指令まで連絡をください。その際デバイスとディスコン棒を持って分岐器まで向かい、確認と復旧作業を行なっていただきます。また葉月駅所定どおり進入できた場合は出発信号機側のポイント不転換になりますので葉月駅到着後連絡ください」
「了解しました」


やはり雨は鉄道輸送の敵だ。雨が直接の原因かは分からないが、線路の分岐器に故障が発生したらしい。久しぶりに大幅な遅れが見込まれるだろう。


ワクワクが止まらなかった。

水無駅を発車した私は顔の笑みを抑えるのに必死だった。幸い乗客は最前の車両には誰も乗っていなかったが、この異常時に何とも不謹慎な顔でハンドルを握っていた。運転に集中していないどころか、運転士見習いの頃のような集中力が緊張と共に私の両手に伝わってきた。普段永遠に同じ作業を繰り返し、エラーなく仕事をし続けることが苦手ではないことに自分でも気づき始め、日々淡々と乗務をこなしながらも職人気質のある運転士という仕事に魅力を感じていた。しかし今この瞬間脳内はアドレナリンで満たされ、目の前で起きている事に意識の全てを注ぎ込まざるを得ない異常時という状況に自分とこれから大魔王を倒しに向かう映画の主人公を重ねた。

「遠方注意」

遠方信号が注意現示をしていた。これは場内信号機が停止信号であることを意味している。つまりポイント不転換は場内の分岐だ。

遠方信号機を45km/hで通過するとATSの警報音が鳴動した。

「ATS警報 場内停止」

私は場内信号機手前で列車を停止させ、お客さまに信号トラブルのため停止したことを案内した。

指令に連絡すると先ほど言われたように分岐器に向かうよう告げられた。

私はデバイスとディスコン棒を持ち、車両から降り、枕木の上に足が着くように線路を駆け抜けた。分岐器に着くと明らかにレールが異常な位置で止まっていた。

「運転士さん、分岐を画面で見せてもらえますか?」

私はデバイスで分岐器を見せた。
ディスコン棒を持たされていたが、この棒で叩けば治るということだろうか?不転換になっている分岐を目の当たりにした私はこのディスコン棒に何の意味があるのか分からなくなってしまっていた。

「運転士さん、ではレール蹴ってもらっていいですか?」
「え?蹴るって言いました?」
「はい。その画面に映ってる「く」の字の部分を蹴ってください」

いやここか?

私は「く」の字部分らしき部分に足を置きながら指令に確認を取る。

「ここですか?」
「そうです!そこが真っ直ぐになっているのが定位なので、蹴ってみてください」

なるほど。この部分が曲がったり真っ直ぐになることで列車が分岐できるようにしているわけだ。私は置いていた足を缶蹴りの様に後ろに振り上げ、靴底で1発蹴りを入れてみた。

「ドスッ…」という音だけが辺りに響いたが「く」の字の部分とやらは、まるで固定されているかの如く何も変化が無かった。

「え?これが動くんですよね?」
「そうです!合ってます!ひたすら蹴ってみてください!」
「分かりました」

私はデバイスをレールの上に置き、ひたすら「く」の部分を蹴り続けた。沿線には民家と国道が走っていたが、利用者の少ないエリアであったため幸いにも誰にもみられていない。乗務員は線路の近くを歩くことや、踏切がない場所でも線路を渡る機会があるが、分岐器の上は絶対に歩くなと言われている。それは分岐器に、もし足が挟まれば人間の力では抜けなくなり、千切れてしまう恐れがあるからだ。私はその分岐器と至近距離で対戦をしている。一端の乗務員として負けるわけにはいかない。

「う、うごかねぇ…」

思わず笑いが出そうになる程、動かない何かを蹴り続ける私がそこにいた。

「ドスッドスッドスッ……」

雨上がりの蒸し暑さの中、乾いた重低音が私の足から奏でられた。しかしレールは一向に動く気配はない。

その後5分ほど同じ場所を蹴り続けたが、1mmも動いた様子がない。私は既に息切れをしていた。

「運転士さん様子どうですか??」
「ハァ…ハァ…う、動かないっす…」

私はデバイスを取り、指令に様子を見せた。

「では、トングレールの先端を定位側へ蹴ってもらっていいですか?」
「ハァ…ハァ…えーっと、ここをこっち側ですよね?」
「そうです!あ!絶対に足挟まないように気をつけてください!!」
「わ、分かりました」

なるほど、列車の進行方向を決めるレールを直接蹴れということだった。

「こっち、動くんかい!!」

私は荒くなった息を整えて再び分岐器と対戦することにした。トングレールは直接動かせないため、「く」の字の部分を蹴らされていると思っていた私は指令に聞こえないよう小さくツッコミを入れた。

トングレールを蹴り始めた。一発、二発…
そして三発目、トングレールを蹴った足に衝撃が伝わると共にレールが10cmほど前に進んだのだ。

「うっ!動きました!!!!!」

思わず大きな声が出た。

「本当ですか!!」
「動きました!!ちょっとですけど!!」
「見せてください!」

指令も大喜びだったが私もこの5分何も動かなかったものが動いたことに感動を覚えた。デバイスで指令に分岐の様子を見せると「おおっ」という数名の関係者の声が聞こえ、続けて私に指示を出した。

「では完全にくっつくまで蹴り続けてください」

やはり蹴るしかないようだ。
令和も5年となり、自動制御の分岐器が主流の日本で分岐を蹴って復旧させている運転士は中々いないだろう。アドレナリンが出ているのか私は目の前の敵に集中していたが、私のレールを蹴る様子は完全に間抜けそのものだったと思う。間抜けでなければ狂った運転士だ。

私はその間抜けな姿を頭から振り切り、一生懸命という言葉がピッタリなキックを繰り出していた。額どころか身体中から汗が出る。制服は既にびしょ濡れだった。

しかし10分蹴り続けても、先ほどのような動きは無く私も疲労を感じ始めていた。膠着状態の中、指令の声が聞こえた。

「運転士さん!先ほど蹴っていた「く」の字の部分をもう一回蹴ってもらえますか!」

「え!?もう一回お願いします!!」

「「く」の字の部分です!!!」

「「く」の字の部分!!ですね!!」

指令も私も沿線の国道に聞こえるくらい大きな声で、間抜けな会話をしていた。

私はもう一度「く」の字の部分とやらを靴底で蹴りつけた。気温も湿度もかなり高い状態で3km程走ったかのような息切れの中、このまま続ければ熱中症になると確信した。


しかし終わりというのは、いつも突然迎えるものだ。



「カチャッ」



という音ともに靴の裏から感じたことのない快感が全身へと伝わった。

「え、、くっついた?くっついた!!指令さん!!くっつきました!!!」

「え!くっつきました??」

「はい!!定位に戻ってると思います!」

「見せてください!」

通話の相手側のインカメラに数名の指令員の姿が見えた。

「あ、大丈夫そうですね。運転士さん、車両に戻って信号確認してください!」

「分かりました!」

私はディスコン棒とデバイスを持ち、息切れを重ねるように線路を走った。現時点で何分遅れているか分からない。一刻でも早く運転再開をしたいという気持ちが私の足を走らせた。

「運転士さん走らなくていいですよ!」

すると指令は焦る私を冷静にいなした。
丁度場内信号機を通過した所で振り返り場内信号機を確認した。R現示がY現示に変わっている。

「指令さん!場内注意になってます!」
「場内注意ですね!」

私は乗務員室へ戻り、デバイスを運転席に取り付けた。

「運転士さん!場内注意現示確認できました!運転再開お願いします」

指令と私は所属と氏名を伝え、運転再開の許可が出た。

私はマイクを取り放送しようとしたが息切れが続いていることに気づき、冷静になるためペットボトルの水を飲み込んだ。

「信号トラブルが復旧したため、運転を再開します。本日は列車が遅れますことをお詫びいたします。申し訳ございません。発車しますので列車の揺れにご注意ください」

「戸締めよし 場内注意 制限45」



ポツポツと雨粒が列車の前面に当たり始めた。まるで私の帰りを待っていたかのようだった。沿線の紫陽花にまた雨が降り注ぐ。紫陽花の上品で、どこか寂しさを覚える青や紫の色が雨によって潤わされ美しさを際立たせる。この雨はまだまだ続くのかもしれない。

私は20分遅れの列車を駅へと向かわせた。

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