見出し画像

3.11 忘れたい でも絶対に忘れちゃいけない


今日で東日本大震災から13年が経ちます。

正直、あの日のことを思い出したくない。

⚠️ここから先は津波の様子や周囲の状況などを思い出せる範囲で述べています。

気分が悪くなる方がいらっしゃるかもしれません。

ご注意ください。


あの日のこと

わたしは宮城県生まれ、宮城県育ちの人間。
当時私は3月に高校を卒業したばかりでした。

あの日、自動車学校に通っており
ベテラン先生を助手席に乗せて、
45号線を運転していました。


が、ちょうど陸橋の下を通ったとき、

車がひっくり返るかと思うほどの地震が起きました。

ベテラン先生が、

もう授業終わり!運転代わるから!

と、猛スピードで自動車学校に戻りました。

その後、自動車学校の先生の指示で
歩いて近くのイオンの屋上へ避難しました。

当時かなり雪が降っており、屋上は風も強く

とにかく寒くて怖くてこれからどうなるのだろうと
不安でいっぱいでした。

そして、屋上から遠くを眺めていると、
【黒い大きななにか】が押し寄せるのが見えました。

しかし、すぐに分かりました。

それは、【大きな津波】でした。

イオンの下をものすごい勢いで流れていき

私はイオンが崩れるのではないか
ここで死ぬのかもしれない

初めて死を覚悟したのを覚えています。

大量の車やバイク
周りのたくさんの建物
海から流れてきたたくさんの折れた木

流れる車から防犯ブザーの大きな音が鳴り響き

泣き崩れる人、
声を失い呆然とする人、
家族の安否確認のため何度も電話をかけ続ける人

色んな人がいました。

私もまた、
これは現実なんだろうか。

と、流れていく車をただじっと眺めることしかできませんでした。

電話が繋がらず、
安否確認が出来ない人が多い中、
私は運良く1回で母と連絡を取ることができました。

母の声を聞いた瞬間。

母が生きていた喜びと、嬉しさと、安堵とで
電話越しに大泣きしてしまいました。

母は
電車が動かないから徒歩で帰宅する。
すみれも気をつけてね。
私は大丈夫だから心配しないで。

と電話が切れました。

その日は帰宅できる状態ではなかったので
屋上の中のホールのようなところで1泊しました。

イオンの方が毛布や食べ物をたくさんくださり、
本当にありがたかったです。

しかし、

売り物にならないことをいいことに、

イオンの物を盗む人がたくさん居ました。

隣に座っていた男の人は
たくさんの種類の漫画を盗んでいました。

悪びれる素振りもなく、
あたかも自分のものかのように

ごく普通に 漫画を楽しんでいました。

盗らないでください!
ぬすまないでください!

イオンの方がそう叫んでいた気がします。

翌朝。

近くで火災があり危険なため、
帰宅できる人は帰宅してください!

と、イオンの方が叫んでいました。

イオンからわたしの家は徒歩15分ほどの距離。

帰る方向が同じだった自動車学校の先生、
中学の同級生計7.8人で帰ることになりました。


45号線を見たとき、あまりの非現実的な状況に言葉を失いました。

何台も積み上がるぺしゃんこの車
あるはずのない卵の殻、食材が至る所に散乱
ひび壊れたUFOキャッチャーの台
横たわるベビーカー

どれも泥まみれで汚く臭いもひどかった

そして、亡くなっている方もたくさんいました

怖くて怖くてたまらなかった
本当に頭がおかしくなりそうでした

書いているいまも、涙がとまらないです



あの日、当たり前の日常が失われました。

高校の同級生が2人亡くなったことを
あとで知りました。

話したことが無い人だったけど、
やっぱり、誰かが亡くなってしまうって
本当に悲しいです。辛いです。

13年経ったけど、
私にとってはまだ13年。

あの日の出来事は忘れたいくらい辛かった

でも絶対に忘れちゃいけない

あの日、
天国へ逝ってしまったたくさんの方々のためにも

生かされた命だと思って、

今日も胸を張って生きようと思います。

拙い文章ですが、
読んでいただきありがとうございました。

では、また。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?