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社会活動と精神世界は矛盾するのか?

「やっとコロナ明けて」今、会話になにげなく登場することが度々あるこの言葉。
私もその場では受け流しているけど、そもそも、本当に「コロナ」という病気が存在して、本当にひどい病気でそれが実際にはやった事実があるのか不明なまま「そういうこと」になり「明けた」ことになっている、この世界に違和感はぬぐえない。

とはいえ、あのぐちゃぐちゃだった時代から少し時間がたたないと、振り返ることはできなくて、私が当時からずっと悩んでいたというか答えがでない気持ちでいて、いまだに答えが出ないことについて、ふと書いておきたい気持ちになったのはある意味あの時代が「明けた」から、ということでもあるのかもしれない。

精神世界が好きな人は、傾向として感度が高いからいわゆる「陰謀論」について知っている人の割合も高く、「人の役に立ちたい」という人間として当たり前の欲求を持っている人が多いと思う。

でも、そういう世界の人も、コロナの時いわゆるデモなどの「活動」に参加するか否かでは大きく意見が分かれた。

精神世界に親和性が高いけど「対立は避ける」派、簡単に書いてしまえば「この騒動がおかしいとわかってはいても、求められればマスクはする」「デモなどは参加しない、どちらかというとそういう活動には反対」な人たちの大まかな考え方として、「現実世界は波動がすべてだから、デモなど、まっこうから対立する“闘いのエネルギー”は重い現実を作るだけ」「相手も正しいと思うことをやっている。こちらの正しさを押し付けると闘いになる」というのがあったと思う。実際、私が好きなインフルエンサーたちもどちらかというとこういう方が多いかったという印象がある。
「デモには行かないけどマスク強制は絶対反対」とか、細分化したらみなさん色々だったけど、ここは簡単に書かせてもらってます🙏

印象的なできごとがあった。
私が保育園の送迎でマスクを強制されて「強制はおかしい」と表明して先生や保育園の運営会社と対立したことがあった。その保育園は、Twitterで私と同じように考えている方が「ここの保育園は子どもにマスクさせなくていいんだよ」と教えてくれて、その情報のおかげで入園できた保育園だった。(当時は3歳以上の子どもに皆マスクを推奨する、という通達が自治体から出ていた時期だった)
でも、私が保護者のマスクにも意見したことで保育園と激突になったときに最初は味方をしてくれていたけど、だんだんと「私は基本的にはどこでもマスクはしないけど、ここでは、そこまで対立はしたくないから、とりあえず上部だけは従う。先生たちにも立場があるし、あなたの話を聞いているとこちらも重くなるからフォローはずします」と言われて、もともと保育園の学年も違って日常的に顔を合わせることはない人だったからそこで縁が切れてしまった。
私は今もその方にめちゃくちゃ感謝しているし、(その方がいなかったら私は仕事始められなかったし子どもの預け先もなかった)あのとき私がものすごく感情的になって、自分を守ってくれない周りの人や社会に対して暗く敵意に満ちていたことを恥ずかしいと思ってる。
だけど、「おかしいことにただ、おかしいと意見する」ことをやめることはできなかったし、保育園ですっごく感じたのは「要は“数”なんだな」ということ。
戦時中と同じだった。まるで隣組みたいに。きっといつもは親切な先生たち(実際、1年半くらいして子どもが保育園になじみ、コロナの騒ぎが若干下火になりだしたころ、園長先生は私に直接「あの時はほんとにごめんなさい。どうしかしちゃってた」と謝ってくれた。私は泣いた。園長先生は子どもが大好きな優しい人で、私もただ子どもが好きで、社会を守りたいだけなのに、どうしてもこうも対立しなければならなかったのだろうと感じて。。)
それが私が口を覆っていないということで集団で「口をふさいで!」とヒステリックになっていたのだから。
あのとき、私のように意見した保護者は一人だった。これが二人だったら?三人だったら?四人だったら?少しは違ったのではないだろうか。そして、小さな保育園で、小さくても変化を起こすことができたら、それは世界全体に何か影響をしたはずだと今も信じてる。
私まで黙ってマスクをして、消毒して、検温してたら、これが「おかしい」という人が一人もいない世界を作ってしまうと思ったし、それは今でも後悔していない。

そして、一方の見方では「スピリチュアルというのは扇動であり、世の中の真実や社会問題から人々の意識をそらして、結局は“闇の勢力者”にとって都合がいい世界を作るために麻薬のようなものを流してるだけだ」というものがあると思う。
私はいてもたってもいられなくて、デモに参加したり保健所や自治体に抗議の電話をかけたり、デモの主催者側にまわったこともあったから、私の周りの人は行動して世界を変えよう、という人が多かった。Twitterで親しくなった人たちも一人一人必死で行動していた。
そういう人たちもスピリチュアルな感覚が鋭い人はとても多かったと感じているし、実際こういう話を行動派の何人かの人とした。その当時の同志たちを私は心から尊敬していたし、今でも続けている人の中に、本当に素晴らしい方々がいることも知っている。
と同時に一歩引いた時に、根本的な疑問があらわれる。「そもそも、デモで何か変えられるのか?」という疑問。私は2020年から2021年はデモに何度も参加したけど、途中から参加しなくなった。
それはこの疑問に対して自分の心の中に「変えられる」というアンサーが持てなくなってきたからだ。私のような、うまく人前でなにか話したりできない社会人としても未熟な一個人が、デモに紛れておかしな争いに巻き込まれたこともあったし、活動家の界隈でも本末転倒な人間ドラマが繰り広げられているのも多く目にした。

だけど、行動することを決して否定する気はない。
たとえ重たい波動になったとしても。

ここにも印象的な出来事があった。
コロナ騒動が始まったばかりだった2020年の夏、私の家の近所にも「マスクを必ずしましょう」「話すときは2メートル離れましょう」みたいな変な立て看板があちこちの電柱にたてかけられるようになった。
私は耐えられなくて区に電話した。「こういう看板が立つと、強制ではないとしても子どもたちは強制だと感じてしまうのではないでしょうか。もうすでに猛暑なのに、暑くてマスクが外せない、苦しくてマスクを外した子どもが非難されて人の目を怖がってマスクをして熱中症で倒れるようなことになりかねないから、このような看板を立てないでほしい」と必死で話した。
なんと、担当者は私に同意してくれた。「そうですね。わかります」と言ってくれて、看板は無事に撤去された。あの、コロナ騒動まっさかりの夏に、私のなかで起こった小さな奇跡だった。
電話した時、私の波動はめちゃくちゃ重くて、世界が狂っていくのが怖くて悲しくていつも泣いてて、とてもじゃないけどいい気分なんかじゃなかったけど、まっすぐな思いを担当者は受け止めてくれて、同じ人間としての感覚は私を励ましてくれた。  

当時のことを結論から振り返れば
悩みながら行動し続けて本当に良かった。
それは出会いがあったから。助けてくれた人のことを忘れることはないし、私の人生は、あのときを境に言葉通りまるっきり変化したから。

かといって、ああいうことをずっと続けていたら、私は自分自身を壊してしまったかもしれない。

最近また「引き寄せの法則」について考えたり研究したりしていて、でも心の底にはこの問いが走ってもいる。
ここに答えを書けるわけでもない。
たぶん住む場所とか生き方とか全部含めて個人個人が自分の奥底を見つめて選択していくことであって、それは緻密で複合的で結局個人的なことなのかなと感じてる。
宇宙の視点でみたら、人それぞれ、すべて正解なんだ。

私自身は、10年ごしに、ようやく「引き寄せの法則」の基本である「いい気分」でいることの大切さが理解できるようになってきた。
もうあんな世界は見たくない。
人々はきっと賢くなっていく。
生まれてきた子どもたちが「生まれてきてよかった」と感じられる
幸せな世界を築けるように
まずは意識を向けていきたい。




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