見出し画像

よもやま

「掌」という曲は当時高3でリアルタイムではそれほどよく理解出来ず、むしろ両サイドA面のもう一曲「くるみ」に大変大きな影響を受け、200曲以上ある中で今でも不動の「ミスチルで個人的に好きな曲第1位」なわけですが。

今、改めて大事な価値観が含まれているなーと思い、カバーしました。

---

人間関係のなかで(とくにプライベートにおいて)、それぞれ個人の「意見や志向の違い」を強く感じる、強く炙り出される時代になるのかなぁ。

最近思うことです。

僕自身というより、僕の周りで徐々にそういった出来事が出てきたなー、という体感。

「コロナが分断を生む」

「これからは分断の時代」

などといった表現も見たことがあります。

特に新型コロナ関連の出来事に対して、個人と個人との意見の差がはっきり出てしまうこと。一つの事象に対し意見が二極化すること。そして市民の分断を生むと。

もちろん個々人の深く考えてる・考えてないの程度の差もあるでしょうが、個人レベルでここまで信条の違いが炙り出されることって、今まであまりなかったのではないでしょうか。ほんとプロ野球くらい?w巨人が好きか嫌いかとか?w違うか。

選挙だって、友人同士で大きく議論するようなことはあまりなかったし、むしろ好まれなかった。(大阪都構想は少し特殊だと思うけど)


分断を生むかどうかは置いておいて、確かにプライベートなレベルで今までおそらく論争になっていなかったであろうようなことが、考え方の違いから論争になることが増えてるのかなーと思うことはあって。身近な人でワクチン打つ打たないとかもそうですが、ひとつ具体的な話をしますと。


先日友人から一本のLINEが届きまして。「すみはるはどう思うよ!?」ということでした。友人は何なら少し怒り気味で連絡してきました。

この友人の友人(僕も知っている人)が、コロナ禍で不特定多数が集まるフットサルを開催すると。しかも今後定期開催をしていくと。

そしてこの友人の友人は介護施設で働いている、具体的に言えば高齢者と完全に身体的接触を伴う仕事をしていると。

かと言ってこの友人の友人はワクチンを打っているかと言えばそうではなく、今後打つ予定もないと。そして発症が分かるのが怖いため発熱したとしてもPCR検査を受けることはないと。(というか介護事業やってて従業員にワクチン奨励してない企業側の問題がかなりでかいと個人的には思うが)

そしてそもそも、人生においてフットサルがそれほど大事な人間なのか、と言われれば、サッカー部だったわけでもなく今までフットサルに従事してきたわけでもなく、

友人が開催していたフットサルに顔を出して楽しむ程度でやってきて、主催者だった人がこのコロナ禍で主催側から抜けることとなり、あとを引き継いだが特に何も考えることなく定期開催するべ、と言っているのだと。

もっと言うと、強烈な反ワクチンとか、「コロナは医療業界の詐欺だ」的ないわゆる「陰謀論者」的思考が強い人間なのか、と言われればそういうことでもなく、

なんとなくワクチンもPCRもやらないのだと。

さらに、そこまでしてフットサルやりたいんだったら、もう少し対人接触の伴わない仕事に転職してみたら?という投げかけに対しても、

介護従事にはある程度のやりがいと生きがいを持って仕事はしているとwなので辞めたくはないと。

無責任すぎやしないか!!本人にも話をしたが全く通じない!!

ということでした。



さて、あなたはどう思いますか??笑



興味深かったのは(って言ったら変だけど)、その後友人と話して紐解いてみると、友人は決して、

このご時世にフットサルを定期開催しようとしていること

ワクチンを打たないこと

PCR検査も受けないこと

転職も考えてないこと

などに怒っているわけではなく、

あくまで介護という仕事に従事していながらという、その「無責任感な姿勢」に対する怒りのようでした。

友人とこの友人はもう5年以上の仲なので、介護に従事していることなど昔から認識しています。

そして、ある程度緩い発想というかw、少し無責任な良い意味でも楽観的な生き方をしてきているということもまた認識があります。

でも今まで、それについてここまでの怒りを感じるようなことはなかった。(正確に言うとちょっとしたことでのイライラ等は時々発生していて都度僕も話を聞いたりはしてましたがw)

そしてそれは人の「命」に関わる議論ではなかったからか、というと、それもまた違い、介護従事者ですし常にではありませんが時に「それって貴方と貴方の仕事先の要介護者の命に関わる問題だね・・」って話は、今回が初めてではありませんでした。


だけども今回に関しては、

「もうその友人との関係も、けじめをつけないといけない」

と思うほどガッカリしたようで。

勿論、今までのチリツモの部分も大きいとは思うのですが、それでも大きなきっかけになったことは間違いありません。


2人の考え方の違いはさておいて、人間関係においてこのような怒りが生まれることがコロナ禍の前には、あっただろうかな??と思ったもんです。

言い方変えると、こんな身近なことですら考え方の違いが強めに炙り出されてケンカのようなことになってしまう、片方の怒りをかってしまうようなことって、なかったんじゃないかなと思うんです。考え方の違いそのものは、昔からわかっていたわけなのでね。


コロナ禍だから、なのでしょうか。


いえ、もう今後はそういう時代になっていく。

他のことをとっても、そのように考え方の違いが大きく表面化していく。


という言葉に、根拠はなくここも「なんとなく」ですが、少し納得をしている僕です。



ひとつにならなくていいよ 認め合うことができるから

という歌詞をRecしてる期間思ったこと。最近考えてたことで一つ頭の整理ができたこと。

少し飛躍しているかもしれませんが。

政治家になるとかでもない限り、

「正しい情報」とか、

「正しい情報を得ましょう。」とか、

そういう定義付けをする時代はもう終わったんだなということ。

その定義付けや、そこからくる議論は、それこそもう分断しか生まない気がするし、「正義と論破とマウント合戦」になる気がします。

正義と論破とマウント合戦の結果、それでも同じ釜の飯が食えるのならいいんですけど、日本人は上記の例も含め割と「意見が違うのなら、お前自身ともう付き合ってられない」と考える節があるというか「意見vs意見」がどうしても「人間vs人間」になって、嫌悪し合うことになることが多いなと。これは僕だってそうです。

「意見はアホだなと思うけどその人のこと別に嫌いじゃないですよ。」と言えるホリエモンみたいな特殊な人もいると思いますがw、これはかなり「嫌われる勇気」で言うところの「課題の分離」が出来ている精神的に成熟した人or少しだけサイコパス要素がある人が成せる技で、おそらくほとんどの人が「意見を戦わせる」背後に「嫌われないかな。」と言う当たり前の恐怖心を持っていて、その裏腹で自分と違った意見の持ち主に対して「嫌悪感」も抱くのだと思います。

人間 vs 人間の要素が強調されていくのであれば何とも、意見の違いが更に強まるこれからの時代は、生きにくくなりそうです・・。


「貴方の意見には反対だ。しかし貴方がそれを主張する権利を私は100%保証します。」

と本心本音で言えると強いんですけどね。


少し逸れましたが、今後僕らが触れる情報は増えることがあっても減ることはないだろうと。

その中で僕らはある程度の根拠となる「情報」を背負って自分の意思決定を行う。その意思決定には[なんとなく〜明確に]の程度の差はあれ自身がこれが一番良かろうとする「拠り所」があるわけです。

となった場合に、近い過去よく耳にしてまた自分自身も大事だろうなと思っていたのが、

「膨大な量ある中で、いかに正しい情報を得るか。」ということでした。

具体的には一次情報に触れるとか、該当者から直接話を聞くとか、該当者じゃない人の話は聞かないとかそんなこと。

もちろん、一次情報的に「正しい情報」というのは物理的に今後も存在するとは思いますよ。「正しい」というより現実としての事象としての情報。

ただ、こういったものはどのみち今後それほど見誤ることはないだろうなと。

そういった類のものより、

・コロナ死者数は◯◯◯人

・コロナワクチンを打った人間が数日後死亡した人は◯◯◯人

といった一見正しいと見られる統計的な数値や、

・外に出たって大丈夫 vs 家の中で自粛すべきだ

・楽しいこともやらないと(というか生業なんですけど) vs このご時世にイベントやるなんて、けしからん!

・外ではマスクはしましょう vs マスクなんて意味ないよ

といったわかりやすく対峙している意見のようなもの。

これらには互いにそれぞれ彼らなりの「正しさ」を背景にして意思決定していると思うのですが、ここが意見が割れやすいですよね。

前者ですら、例えば、「コロナで死亡した人の数」はどこまでを含めるのかによって数値が全く変わってくる。コロナで亡くなった?コロナに感染した人が別の要因で亡くなった?このことは、この「コロナで死亡した人の数」から表面的に把握することは不可能です。数値には「定義付け」があって、その定義付け自体に対して意見が分かれるから、統計的な数値ですら対峙が生まれる。

一部の専門家の意見や世界の情勢等、トータル的に見ていろんなことの「定義付け」をそれぞれ行なって「意味のブレ」をなくし、方向性を見出さなければならない政治の場合は「これが正しい情報なんです!」という主張は僕は出来ると思います。するべきだとも思いますし。

しかしそれに対しての市民の意見と、また市民同士の意見だと互いに「正しい情報」は自分の意見の方だ!と、自己正義を主張して論破を試みてマウントをとっていると、まじでややこしいなと思うのです。


正しさ vs 正しさ


では、これからはもう何も生まれない。

これだけの量の情報があると、それぞれにもう「それが正しい」と定義し得るだけのロジックは成り立ってしまう。それが情報過多社会なのだと思います。

もっと言うとまず自分の信念や信じたいものがあって、信念ありき、信じたいものありきでその根拠とロジックを探し出そうと思えば、もはや「人を殺したい。」ということですら正当化出来るほどの十分な情報が世の中には存在してしまうと思っています。

子どもの頃、名探偵コナンを見ていてエンディングに向かうたび、家族で

「殺人を犯した人は悪いけど、こうして話を聞くとその人も辛い思いをしてたんだね。」

という会話をしていたのを覚えていますが。笑

「どうして人は殺しちゃいけないの?」と言う子どもの純粋な質問にどのように答えたらいいのか、と子どものいない自分でも考えることがあります。


正しい情報


ではなく、


自分が「選択」した情報

って感覚なのかなと、最近は思っています。


勿論、僕にも価値観とか意見はあります。コロナ関連に対してだって、それ以外にだって。

反対側の意見を見聞きしたときに、第一感情として「ふん、アホやなこいつ。」と思うことは勿論ありますwwそこは消せないと思います。

それでも、自分が選択した意見や情報に対して「自分の信じてることにだって、危うさがあるんだぞ。」と思って、危機感というかそこに対してはピリっとした感性を持って日々生きてたいと思うし、違う意見を持った人間も尊重できる豊かな人生でありたいと思うわけです。別に普段から一緒に居たりとか頻繁に会うとかはないとしてもね。


ただ、少し余談ですが価値観が揺らぐ時代、「これが正しい情報なんだよ。色んな意見があるけど正解はこれだよ。」といった言葉でもってアプローチをしてくる人間には、特にビジネスが絡んだ場合に個人レベルでは少し注意した方が良いと思います。自身の利益に有利な「正しさ」なだけで、ただの個人的な意見・主張ならまだしも、自利がために客観的であることを見失って「正しい価値観論」を他人さまに押し付けられる感覚の人間というのは、これからの時代結構危ういと思います。今までは良かったかもしれないけど、自戒の意味も込め、注意するようにしています。


んでもう一つ。

逆に僕みたいな考え方をする人間が、気をつけないといけないこと。

それは、

「ひとつにならなくていいよ。認め合うことができるから。」

で、

ひとつになろうとしないこと。笑

「ひとつにならなくていいのに、なんで一つになろうとするんだ!!なんでそれぞれの主張がさも正しいかのように皆ふるまうんだ!!それぞれの意見があるのに、どうして皆は自分の意見が正しいと執着するんだ!」

「一つにならなくていいよね!?君もそう思うよね!?だってそうだろ?」っていう姿勢もまたww、ただの一つの正しさの押し付け。

難しいよね。


全てを受け入れよう、寛大であろう、だなんて思いません。

人徳者であろう、誰からも理解を得られる人間でいよう、とも思いません。

感覚的には、「楽」に生きてたいっていうただそれだけ。

生きにくくてもこの価値観を信じよう、みたいな信念って僕ないんです。

逆に生きにくさを覚えてまで守らなければならない価値観なんて、本当に必要なの?と思う。

そのためには思考軸について、時に外をシャットアウトしてでも思いを馳せる時間とかとった方がいいなーと思い、とるようにしています。


自分はどう感じるんだっけか。何を信じたいんだっけか。


そのうえで、


君は、君で、


僕は、僕。


そんな当たり前のこと。


5499文字だってさ。大学レポートかよ。

↑5500文字目ww



んではまた^^


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?