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1枚のイメージのための15000字 - ロベルト・ボラーニョ「雪」(『[改訳]通話』収録)ブック・レビュー

知ってるとは思うが、朝の四時のモスクワの通りはとても安全とは言えない。外はまるで、パヴロフが電話をかけてきたときに見ていた悪夢の続きみたいだった。辺り一面の雪で、たぶん気温は零下十度か十五度だっただろう、しばらくの間、俺以外には人っ子一人見当たらなかった。

引用文献:ロベルト・ボラーニョ著、松本健二訳「雪」(『[改訳]通話』白水社、2014年、P.110)

この「俺」とは、ロベルト・ボラーニョの短篇集『通話』に収録されている短編、「雪」の登場人物であるロヘリオ・エストラーダというチリ人の男で、そのロヘリオがロジャー・ストラーダって名乗りながらモスクワに住んでいたときのことを語り手である「僕」に話すのだが、その話は多くの人の胸を打つという類のものではなく、ほとんど「俺」の一人語りで、最後も「僕」の声に戻ることなく小説は終わる。

つまり、よくできた小説ではまったくないのだが、よくできた小説にはない良さがあって、ときどき思い出してしまう。下書きのような不完全さと、そのやけにシンプルな「雪」というタイトルの組み合わせが喚起するイメージの純粋さに、何度も驚いてしまう。

物語を想起させる絵や写真というものが存在するが、ボラーニョの「雪」はその逆だ。15000字で語られる物語が、1枚のイメージを呼ぶ。そこでは、意味は解釈といったものは後退し、感情が付着する前の色と形によって構成されたシーンだけが残される。

「雪」と名付けられた物語は、その場にとどまりながらその名に包まれて姿を消す。それはもはや何を意味するのかわからないのと同時に、その実態であり、新しい白へと無制限に書き直されながら命脈を保つ。それは神託のように忘れたころに現れ、不意にそのイメージを受け取ってしまった人を、道の途中で立ち止まらせる。

様々な解釈ができる物語も面白いが、解釈そのものを無効化してしまう物語もまた面白い。

この下書きを保存したのは2020年3月14日でした。その日、東京では雪が降り、観測史上最速で桜が開花しました。不思議な日だなと思いました。それからずっと、不思議な日だなと思いながら過ごしています。ぼんやりしているうちに、ずいぶん暖かくなっていました。



最後まで読んでいただいて、ありがとうございました! そこにある光と、そこにある影が、ただそのままに書けていますように。