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動かないことで増幅されるもの − ライカM3の彼と、Nikomatの父の思い出

写真好きにもいろいろある。
いつ、どこで、なにを、どのように撮るのか。それらのひとつひとつがはっきりしている人もいれば、明確な理由などなく、歯を磨くような日常的習慣として写真を撮る人もいる。

私は写真にまつわる全般が好きで、たまに自分で撮ったりもするけれど、他人が撮った写真を見る方が好きだ。そして、それがフィルム写真だったりすると、20%ほど割り増しで見てしまう。

写真は最後に提示されるイメージがすべてだから道具は関係ないし、手間暇かければ、いいものができるというわけでもないと思う。

だからこれは単なる偏愛傾向の表明と、それを形成した2つの個人的な体験を語るだけのものだ。

何の役にも立たないと思う。

でも、役に立たない美しいものが、どうしても忘れられない人に読んでもらえたら、とても嬉しいです。それから、どうしても忘れられない人がいる人にも、どうか。

(Photo by Mark Solarski on Unsplash)

ライカM3の彼

今から9年ほど前、会社を辞めて1年ほど海外をぶらぶらしていた。一人旅ではなかった。今から考えると、彼は私につきあってくれただけだったのだと思う。

「とりあえず全体を自分の目で見ないと、自分がどこにいるのかもわからない」
30を過ぎて学生のようなことを言いだした私の話を、笑わずに聞いてくれる優しい人だった。そして優しいだけでなく有能で冷静だった彼は、会社を辞める代わりに1年間の休暇を取りつけた。

写真が上手な人だった。それは前から知っていたのだけれど、同じ時間に同じ場所でカメラを構えていると、それがよりはっきりわかった。彼と私ではまったく違う写真ができあがる。私は途中から自分のカメラは記録用と割り切っていたと思う。そして撮れなかったものを補うように、少し真面目に文章を書き始めた。

彼が旅行中に使っていたカメラは、リコーのGRというコンデジと、ライカM3という中古の機械式カメラだった。アナログカメラを使う人はかなり減っていたけれど、今と比べればまだフィルムを入手しやすい時代だった。比較的大きな町に着くと、それまでの1、2ヶ月で撮りためたフィルムを現像に出し、新しいフィルムを5、6本購入した。KodakのTRI-Xがあればそれを買い、なければ見たことも聞いたこともない白黒フィルムを買った。

現像の仕上がり具合は様々だった。薬剤がきちんと洗い流されていないときもあったし、カットされたフィルムの束が紙袋にそのまま入っていたこともあった。本人は付着してしまった埃や汚れを見てがっかりしていたけれど、私にはそれさえも大切な「しるし」に見えた。

旅の途中で、もし彼が集中して写真を撮りたいから別れて、と言ったら素直に受け入れようなどと考えたりもした。孤独の深度が強ければ、もっと深い黒が写るような気がしたのだ。でも結局、私たちはそんな格好いい理由ではなく、ごくありふれた理由で帰国から数年後に別れた。

だから、残念ながらここで彼の写真を紹介することはできない。でも、孤独がどうとかの胡散臭い話は別にして、いい写真がたくさんあったと思う。ただ1回だけ、完全に撮り損なったことがあった。

ペルーのチチカカ湖に浮かぶアマンタニ島で、ホームステイまがいのことをしたときのことだった。ツアー会社がお膳立てしたもので、すべてをわかった上で仕立てられた体験を買ったつもりだった。でも、予想外のことが1つだけあった。私たちのホストだけ、若い女の子だったのだ。

他の旅行者が、恰幅のいい中年女性に連れられていくのを横目で見ながら、私たちは先を歩いていく彼女の後に黙ってついて行った。家には幼い弟が、人懐っこい笑顔を浮かべて待っていた。お父さんは悪い人ではなさそうだったけれど、とても雑な言い方をすれば、いわゆる駄目人間だった。金を稼がず、家のことはすべて娘に任せきりだった。お母さんはいなかった。

彼女は16歳だった。親切だったけれど表情は硬かった。作られた体験を買うという旅行者への軽蔑と、それで生計を立てなければならないという矛盾に苛立っているように見えた。無邪気にまとわりついてくる弟の写真は撮れても、彼女の写真は撮れなかった。それをした瞬間、彼女を物珍しい観光資源として見ていることを認めることになるからだ。彼も彼女にはカメラを向けなかった。美しい丘や、その中腹のひらけた土地でサッカーをする子供たちを撮ったりしていた。

私はこのまま彼女のことは1枚も撮らずに別れるのだと思っていた。だから翌朝、さよならを言ったあとに「写真を撮っていい?」と彼が言い出したときは少し驚いた。私の心配をよそに、彼女はあっさりオッケーと言った。笑うとずっとあどけなく見えた。ホストの役目を終えて、ほっとしていたのかもしれない。彼はフィルムカメラを構えファインダーを覗き、1度だけシャッターを切った。

そのフィルムをどこで現像したのかは、はっきり覚えていない。チリのサンティアゴだったような気もするし、ポルトガルのリスボンまで持って行ったような気もする。どちらにしろ、その写真を見ることはできなかったのだから、関係ないことだけど。彼がシャッターを切ったのは、36枚撮りフィルムの37か38コマ目で、彼女の像は半分も写っていなかった。

もし写っていたら、どんな写真だったのだろうと思うことがある。デジカメでも撮らせてもらえばよかったのかもしれない。でもやっぱりあの場面では、あれしかなかったとも思う。そして、きちんと写らなかったからこそ、こうして今も鮮明に思い出すのかもしれない。切れ長のちょっときつい目と、すっと伸びた背筋がとても美しかった。

Nikomatの父

フィルム写真をひいきにするもう1つの理由は、幼少期の記憶に由来する。

私の父は、長年ニコンの子会社に勤めていた。高校を卒業をしてから定年後の嘱託期間まで合わせると45年間、1度も転職しなかった。ずっと営業で、売っていたのはカメラではなく顕微鏡用のレンズだった。だから、父はカメラに特別詳しいというわけではなかった。それでも、うちには社販で買った廉価版の一眼レフカメラがあり、ごくたまにではあったけれど、自宅でプリントもした。

専用の暗室はなかったから、台所を締め切っただけで遮光も不完全なものだった。でもとにかく「一度始まると出入りはできない」。父にそう言われると、胸がドキドキした。おしゃべりは禁止されていないのに、何か神聖なことが始まるようで、兄も私も黙って作業を見つめた。

四角いプラスチックのトレイが3つ並べられ、そこに謎の溶液が注がれた。赤い照明で不思議にとろみがかって見えるその液体に印画紙を浸すと、うっすらと画像が浮かびあがる。芸術的な価値があるような写真ではない。あのカメラではそんなものは1枚も撮られなかった。行楽地で撮った家族写真とか、賃貸マンションの薄いドアの前で撮った入学式の朝の写真とか、そういう類のものだった。

私が中学に上がるころには、家族で一緒に出かけることも少なくなり、カメラの出番はどんどん減っていった。当然、自宅でプリントなんて面倒なことはやらなくなっていた。

あれはどういうつもりだったのだろう。
彼が私の実家に来てくれたとき、父がNikomatを出してきて「使わないか?」と訊いた。レンズキャップは紛失していて、フィルムを装填する部分の蓋は閉まらなくなっていた。彼にはすでに上等のライカがあり、旅には持っていかなかったけれどCannonのデジタル一眼レフも持っていた。同じNikonでも、名機と謳われるF2ならまだしも、それは廉価版のNikomatで、しかも壊れていた。いろいろあったけれど、やっぱり優しい人だったのだと思う。彼は迷うそぶりも見せず、それを嬉しそうに受け取ってくれた。
一緒に住んでいた部屋から引っ越すとき、私は少し迷ってからそのカメラを自分のダンボールに詰めた。

恋をしたことがある人はみんな知っているとおり、永遠は一瞬にしか存在せず、一瞬は積み重ねるうちに自らの形を変えてしまう。

それでも私はこれからも、瞬間の断片的提示に一瞬の夢を見て、永遠に恋い焦がれていくのだと思う。

それはもう動かないし声も出さない。でも、そこから物語の気配を完全に消し去るには、この世界はあまりにも豊かだ。


最後まで読んでいただいて、ありがとうございました! そこにある光と、そこにある影が、ただそのままに書けていますように。