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自分の名字がついている祭に行った話

私の名前は鷲見栄児という。鷲を見ると書いて「すみ」と読む。ほぼ岐阜県にのみ存在するいささか珍しい名字だ。
実家に一通の葉書が届くことからこの物語は始まる。飾り気ない官製ハガキに簡潔な文章で綴られたそれの見出しにはこう記されていた。



「第57回 全国鷲見家祭開催のご案内」


差出人は全国鷲見家会。毎年恒例の鷲見家祭を鷲見神社で開催するから参加せよとのこと。宛先には祖父の名があるが既に鬼籍入りし四十余年、父もまた還暦を待たず早逝し現在は母一人。代は我々へと下っている。
とまれ鷲見家会が鷲見家祭を鷲見神社で、である。
寝耳に水の鷲見情報過多に動揺するもしかし、こない得体の知れぬ奇天烈な誘いに乗らぬ手は、まあない。早速東京在住の兄へ連絡するに予想通りの二つ返事、結果仔細知らぬ我が娘も含め三人での参加を決めた。


以来あらぬ妄想は尽きず、果たして鷲見家祭とはいかような奇祭であろうかと、そればかり考えて当日を待つことになった。岐阜の奇祭といえば肘神様、ちゅうえいようにキレキレの鷲踊りが輪になって繰り広げられるのだろうか。はたまた飛んで埼玉で明かされた埼玉県人の誇りを示すシラコバトポーズの如く、伝統の荒鷲ポーズを一族郎党揃い踏みでキメるのではなかろうか。Tシャツバッジステッカー、、鷲見家グッズがずらりと並んでいたらマストでコンプリートせねばならぬPayPay は使えるのだろうか云々。。。
持ち前の妄想癖が次々と生み出す期待は、表裏一体の不安として膨らみ続け、瘤となり私の心身に負担をかけるように成長していった。これ以上何も知らぬまま謎渦巻く鷲見家異世界パラレルワールドに飛び込むのは危険極まりないと判断した私は、 ググった。


「鷲見氏とは、12世紀頃、岐阜県郡上辺り(現在の高鷲)で悪さをしていた鷲を天皇の名により退治し鷲見の姓と所領をいただく鷲見頼保を祖とする。鷲見城を築き代々栄え10代保重の時には山県から尾張一部の18万石までを納めるが戦国時代に一度滅亡。その後織田信長に願い出ての復活だの云々カンヌン。して、鷲見神社には頼保公が祀られている。」



ううむ何やらあらぬ方向になってきた。たまさかご先祖様の随分と立派なことである。これまでスミスだのスミちゃんだのさんざ軽口をきいてきた奴らをおしなべてたしなめてやらねばならぬ。
しかし、恥ずかしながら今まで全く知らぬ存ぜぬとは、一体我が鷲見家の教育はどうなっておるのだ。いや待てひょっとすると、父の革新的リベラルな教育方針により、重たい伝統なぞこれからの時代はいらぬとひた隠しにされていたのか。結果兄弟揃ってデザイナーという、信じるものは救われる的エスパーのごとき所業を生業にし、今まで飄々と生き抜いてこれたのかも知れぬ。今となっては確かめようもないが、父の慧眼恐るべし。知らんけど。
閑話休題、鷲見家祭である。これはもしや、やんごとなき一族の極めて真剣な行事なのではなかろうか。行くと連絡してしまった手前ここで怯むわけにはいかぬが、正直少々面倒臭くなってきた。なにせ前述の英才教育により、無駄に形式ばった行為と意味が一致せぬ事柄に対し、異常な拒否反応を示すのである。ああ、何も知らない生娘だった頃は良かったなあとあの胸のドキドキを懐かしみ、知識とは想像力との等価交換なのかと情報消費社会の功罪を憂う。いやだがしかし、ネットは便利ではあるがこの世界の全てではない。百聞は一見にしかず。そう胸に言い聞かせ、完全なる物見遊山であることに後ろめたさを感じつつもその薄汚れた心をひた隠し、メーデーメーデー令和4年11月23日勤労感謝の日、我ら三人はいざ鷲見家祭へ参加すべく自宅を後にした。


空模様は生憎の雨。絵に描いたようなお足元の悪い中、岐阜市内長良川河畔の自宅からわずか15分足らずで、鷲見神社に到着した。拍子抜けするほどに、近い。
神社は比較的交通量のある2車線道路沿いに隣接する小山の裾にへばりつくような姿で佇んでいた。そしてそこは、旧友の自宅と目と鼻の先であり、過去に幾度となく通った覚えのある割と馴染みのある場所であった。
腑に落ちぬ。
齢五十の声を聞くというに何故今の今まで気がつかなかったのだろうか。神社名を知らぬのはさもありなん、この辺りに神社があったなあという認識自体、薄ぼんやりとも一切ないのである。やはり普段は強力な結界が張られており、その姿を薨っているに違いない。今日は鷲見家祭、スターゲイトが開く特別な日なのだ。そうかそうなのだ。もうそういうことにした。

初めてお目にかかる鷲見神社は、秋雨の外套を纏いて鴨羽のごときビロードの艶を帯び、なんとも面妖なオーラを放っていた。


続く


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