見出し画像

昔のブログを読み直す


娘と話していて、昔こんなことがあったんだよと思い出話。
大学の生徒たちと話していて、それ僕もおんなじこと感じたことがあったんだよと思い出話。
最近そんなことが立て続けに起こったので、あの頃僕は何を考えていたんだろうと、以前書き綴っていたブログを検索してみた。見つけたブログのタイトルは「寝耳にうぉーたー」実に頭が悪い。
そこには一昔前(十年以上前だ)の僕がいた。

ほとんどがどうでもいいような話で、妄想であったりぼやきであったりちょっとは思想であったりするのだが、そんな毒にも薬にもならない散文をいくつか抜粋してみることにする。


2007年1月24日
タイトル「言葉の意味」

先日の歯医者さんでのこと。
後ろから聞こえてくる先生の会話。
「スミさん右上6番コンチだから。」

コンチかぁ、、、

以前からよくそう話されているのを耳にしていたので、なんかの専門用語なんだろうなあと思っておりました。

(お医者さんだからきっとドイツ語かな。なんかカッチョイイなぁ。そういえばイタリアのエスプレッソマシンにもCONTIってあるもんなぁ。やっぱ発音は「コンティ」だな。うん。)
などとモヤモヤと。

しかし今回は新人さんの研修中だったため、一生懸命メモを取る歯科助手見習いさんに説明をされる先生の声が。
「あのね、歯の根っこを治療することをコンチっていうからね。覚えてね。」

「はーい」(ハーイ)
心のなかで新人さんと一緒に返事をする僕。

(そうかぁ、根っこの治療をコンティっていうんだ。なるほど~。勉強になったぞ。これからみんなに使ってやろう。ドイツ語イッコゲットだぜっ。)

謎が解けてすっかり上機嫌の僕。先生が来られるのを待ちながらちょっぴり鼻歌まじり。

(フフフフ~ン。そうかぁ根っこの治療でコンティね。根っこの治療でコンチ。。
根、、、っこの、治、、、療で?根・治!!!?)

コンチ日本語じゃ~~~ん!!!
(しかも略語!! ダセエ、ダセエよアンタ。。)

状況に惑わされず物事の本質を見極めるのがデザイナーの仕事だとするならば、まだまだ三流だと痛感した冬の昼下がりでした、、


>>>歯医者で起きた勝手な思い込みを瑞々しい口語体で綴っている。しかしこの物事は全て彼の頭の中で起き、終わったことである。ただの妄想をデザイナーとしての自戒へと昇華する意識の高さにただただ敬服するのみである。
次を見てみよう。



2007年3月6日
タイトル「本日の講義」

名古屋のお世話になっている木工所(?)へ打ち合わせにいったときのことである。かなりご無理を言って制作して頂いているので、なにか差し入れでもと思い、道なりに見つけたケーキ屋さんでケーキを購入。たぶん3人だろうから僕入れて4個あればいいと思いつつも、助っ人が見えてたらいけないからともう1個、合計5個のケーキを手みやげにお邪魔する。

お邪魔してみるとスタッフは3人。
ひととおり打ち合わせをすませると、じゃあちょっと休憩しましょう。とお茶タイムになった。

そこでのお茶の時間の楽しかったことといったら!

さあこれからが本題ですよ。

デザインというものは
5個目のケーキのようなものである
ということ。

さて5個目のケーキはなにをしたのか?

まず第一に、選ぶという楽しみを増やしてくれたこと。4個でも選ぶには違いないでしょうが、最後の人には多少なりともの残り物、自分の意志で選んでいないという劣等感が発生します。それに5個目のケーキがあることで、全員が自らの意志で選択したという欲求を満たしたのです。

そして第二、5個目のケーキをどうしよう、とみんなが考えるという思考のきっかけを生み出していること。4個の均一に配分されたケーキでは目の前にある自分の(ものになった)ケーキと向き合うしかないのです。そこには味に対しての思考しか生まれません。
5個目のケーキは、欲望を生み、思考を生み、アイデアを生み、会話を生んだのです。
このときは結局まんなかに置かれたケーキを山崩しのようにあっちこっちから食べていって、細くなったケーキを倒れないようにするスタッフの所作がおかしくて、みんなで大笑いしながら食べました。

同じ一個のケーキが楽しい時間を生み出したのです。

単純にきれいにものをつくることはできる。僕らはプロだから。
だがそれでけでは4人に4個のケーキを分けることに通じる。
「用」を満たしたことにすぎない。
これはデザイナーでなくオペレーターのようなものだ。

5個目のケーキを用意すること。
これは物質的な満足を差すのではなく、そこから人の思考、行動、楽しい気持ちを生み出すこと。

ものそのものだけでなく、そのものがあることによって生まれる「ものの外側」その空気をつくること。

それがデザイナーの仕事であると私は考えます。

ご静聴ありがとうございました。

追記:5個目のケーキの効果を考えてしたことなら私は一流だと思いますが、残念ながら今回はただの偶然です。。。もっと精進せねば。


>>>ふざけた雰囲気を出しながら、うまいこと言ったった感がありありとした実に狡猾な文章である。しかしながら内容はデザイナーと本質を捉え真を食っているとも言え、妙に納得させられてしまう分タチが悪い。後にハウツー本に使われないことを祈る。



2010年2月22日
タイトル「つまみはいらない」

夜の八時犬の散歩にと外へ出ると、夜気にほんのほんのかすかな春の気配が混ざっていた。

季節が変わるその前の、まだ予感にも満たない小さなひとかけらが、

なにとはいいようのない胸騒ぎをつれてくる。

こんな夜には、さっさと仕事を切り上げて、とびきりの酒を飲みたいものだ。

まずグラスは昔兄から誕生日にもらったバカラのロックに大きな氷を一つ。

そこに注ぐのはラフロイグのカスクストレングス。

スコットランド生まれのアイラモルトは春待ちの連れに心地よい。

薪ストーブに火を入れて、二月の空に窓を開け放つ。

灯りも、音楽も、つまみもいらない。

もうどこかに隠れてしまった春の気配を探しながら、遠く離れた海から吹く、ヨードのような潮の香りに揺られ、ただゆっくりと櫂をこぐ。

などとちょっぴり現実逃避。

仕事をするにはもったいない夜だが、今夜はまだまだ終われない。

さあ、いくよ。図面あと8枚!


>>>文豪めいた削ぎ落とした言葉から壮大で大人のゆとりを感じさせる世界を語っているが、なんのことはない残業で徹夜決定という状況からの現実逃避、誇大妄想である。唯一の真実は文頭の犬の散歩でふと感じた春の気配。それだけは信じてあげたい。



15年前、ネットは普及したがSNSがなかった時代。まだまだ時間はゆっくりと流れていた。ブログに文章を書くという行為も、また内容も、それを感じさせる。コミュニケーションではない、承認欲求でもない、自己表現。実にシンプルな行動理由だ。
現在、僕がネットに書きこむ文章は、実に退屈だ。クソ真面目で全くもって面白みのかけらもない。いつからこうなったんだろう。周りを見ても同じ。写真と動画が強い表現方法になったのはあるだろう。しかしだからと言ってそこからは、含みもユーモアもやっぱり感じない。

ビジュアルに相対して文章は情報量が少ない。しかしシンプルなぶん自由度が高いとも言える。相手に想像させるという面で、他人と一緒になって自分の世界を広げることができるのだ。ゼロかイチかで表現されるデジタル世界は明確だ。エッジがくっきりしている。それはどれだけ解像度を高くし一見滑らかに見えてもだ。アナログはグラデーションで、滑らかに切れ間なく曖昧に、全てが繋がっている。おかしみ、含み、揺らぎ、無意味、役に立たないこと。そんなような現在無くなっていこうとしていることに、先の未来があるような気がしてならない。


と、結局カチンカチンの文章になってしまうこの始末の悪さよ。



>>>そしてこの書き起こしは2021年10月に行ったままPCの奥底にオフラインで保存してあったものを転記したものである。
時は2024年、noteはなんかいいなって思いこちらに公開することにした。
実に時間を経たものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?