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「あなたの命はあなただけのものではない」って言われたら、じゃあ私はなんなんだ

お久しぶりです。
澄田美稲です。

この記事の前の投稿が確か6月?とかだったのでおよそ5ヶ月ぶりのnote投稿になりますね。

だいぶ前のことになりますが、以前に『「普通に考えて」「常識的に」という言葉が苦手だ』という記事を書かせていただいたのですが、この記事に対してTwitterで反応を頂けました。とても嬉しく、幸せだなと感じる出来事でした。この場を借りて再度感謝申し上げます。

それでその話と今回のテーマと何の関係があるかというと、反応を頂けたので久しぶりにその記事を自分でも読み返してみたんですよ。そしたらそこで好きな言葉と嫌いな言葉にも軽く触れていて、そのことはまた別記事で書きますね、と言っておきながら書いていなかったことに気づいたので慌てて今書いています。

というわけで、今回綴らせていただくのは私の嫌いな言葉である「あなたの命はあなただけのものではない」についてです。

ここからは崩した表現で綴らせていただくので、どうかご容赦ください。

この言葉が嫌いっていうと、なんかちょっと尖ってるというか。青臭いというか。反抗したがりな思春期なのかな?みたいに思われると思う。

でも実際私は昔からずっとこの言葉が嫌いだし、いろいろな人と話してきても未だなおこの言葉が嫌いだ。この言葉はよく聞くものだし、極端な話をすると自殺を止める常套句であったりすると思う。あとはグレた人を諭したりとか。

この言葉を聞いて人は
「そうか、自分は今までたくさんの人に支えられて生きてきたんだな。自分一人では生きてこられなかったし、自分はその恩を自覚しなければいけないと同時に、自分の周りにはこんなにもたくさんの人がいるんだ」
みたいな感じで人の暖かさに気づく、って感じになるんだと思う。

この言葉が嫌いだって言った以上、こうやってかくと小馬鹿にしてるみたいなニュアンスで受け取られてしまうかもしれないけれど、決して馬鹿にはしてない。
人は一人では生きていけないってのはその通りだと思うし、本当にたくさんの人に支えられているからこそ今の自分があって、「生きる」ということは自分以外との接触に他ならないと私は思うから、そういう観点でもこれは正しい。

私自身が、多くの人の中でも相当人間関係に恵まれて生きてきたのだろうという自覚があるし、私が今自分の人生を幸せだと感じられるのは周りの人のおかげだという自負もある。

でも、それでも。私の体はあくまで私だけのものだと思うのだ。他の誰でもない、私だけの。

今はそんなことないけど、私には死にたい時期があった。

「産んでくれた、そして育ててくれた親が悲しむ」

そんなことは関係ない。苦しいのは私だ。辛くて、死にたいのは私だ。親じゃない。

「みんながあなたを心配している。生きていてほしいと思っている。」

知ったことじゃない。生きているのが辛くて、死ぬことでしか解放されないんだ。死ぬしかないんだ。幸せなお前が私のことを知ったふうに、私の人生に口を出すな。

「あなたの命はあなただけのものではない」

じゃあ私は何なんだ。今まで必死に生きてきた私は誰なんだ。今まで歩んできたことの道は、誰のための道だったんだ。私は私の体を使って、私の道を歩んでいたはずだったのに、その道を我が物顔で「自分もこの道を作った」と言ってくるお前は誰なんだ。

支えられてきたことはわかる。
あなたたちがいなかったらここまで来られていないだろうことだってわかっている。
人は一人では生きていけないし、どんなに自分は他人に頼って生きていないと思っている人でも、どこかで必ず誰かに支えられていることだって知っている。

そうやって自分が支えられて生きていることを自覚して、自分を大切にして、感謝しながら生きていくべきなんだってことぐらい、言われなくたって痛いくらいにわかってる。

だけど

生きていくのは私なんだ。

他の誰でもない、あなたでもない、私なんだ。
喜ぶのも、怒るのも、哀しむのも、楽しむのも私だ。

誰がなんと言ったって
誰が私の人生を支えてくれていたとしても

これから先を生きていく上で

苦しむのはこの世界の誰でもない、紛れもないこの私なんだ。

それなのにどうして
私の命は私だけのものではないと、そんなことが言えるのだろう。

あなたは私が苦しんでいるのを見て、自分だって苦しいんだと。そう言うけれど。
そんなのははっきり言ってしまえばただの同情なんだ。私の苦しみはどんなことがあったとしてもあなたにはわからない。私だってあなたの気持ちは絶対にわからない。

この世界のありとあらゆるものに気を遣って、丁寧に、慎重に生きているんだから。

私の命くらい、私の好きにさせてくれたっていいじゃないか。


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