僕が死んでも悲しくないのなら、とりあえず黙っててくれないか
「うるさい世の中だ」
最近そんなことをよく思う。
リアル世界、ネット世界に溢れた自己啓発の言葉、「〇〇禁止」の看板、好き放題切り取って好き放題文句を垂れるSNSのコメント欄など、「うるさい」要素がとにかく多い。
アウトプットし放題になったのはネット社会、SNS社会のいい側面だが、その結果「うるさい」言葉が蔓延っているは皮肉に思える。
最近「コンサル動画」なるものをよく見かける。
その道の専門家が、ビギナーの人に対してコンサルティングするというもので、ビジネス、キャリア、クリエイターなど様々なコンサル動画があり、勉強になることも多いので僕はたまに見ている。
厳しくも愛のあるコメントをしていて、目の前の人の成長を本気で願っている動画は、見ていて気持ちがいいし、「こうやって導いてくれる人がいるのは幸せだよな」とも思う。
その一方で、ただ厳しいだけのコンサル動画もたまに見かける。
厳しいというか、マウントを取っているというか。
切り抜かれたショート動画なので、背景は真意はわからないが「本気で痩せようと思っていないよね?自分に甘くない?」と相談者にキツい言葉を浴びせる動画が流れてきて、色々とわからなかった。
そして、一番こう思った。
その動画の登場人物の関係性がわからないので、なんとも言えない部分はあるが、一回限りの相談であれば、「死んだら悲しんでくれる」は多分Noだろう。
今の「うるさい」世の中がなぜうるさいのか?を考えてみたところ、「発言の対象者が増えすぎた」のは理由の一つにある気がする。
気軽に投稿できるのはSNSのいいところだが、自分の発言が簡単に世界中に届いてしまい、全く知らない人からいろんな角度のコメントが来る。
いわゆるレスバは、お互いに知らない人同士の言い争いであることが多い。
それに「〇〇な人は〜」的な発言は、特定の誰かを思い浮かべている場合も多いが、自分の意見を正当化するために作り上げた架空の人物であることも多い。
「みんな〇〇するんだよね」と言うが、そのみんなって誰だ?
そして、あれやこれや「うるさい」ことを言ってくる人は、離れたところからぐちぐち言ってくる人は、あなたのことを本気で想ってはいない。
どうでもいい人だからこそ、自分の人生には影響しないからこそ好き勝手言えるのだ。
なら逆のことも言える。
僕が死んでも悲しくないのなら、とりあえず黙っててくれないか。
僕が死んでもあなたの感情が1mmも動かないのであれば、僕のことは放っておいてくれ。
僕に対して何も想っていないのなら、僕が好きに生きて、僕が好きな人のために生きることを邪魔しないでおくれ。
愛情がないのなら、愛情がないことを理由に離れておくれ。
僕だって、自分と自分を愛してくれている人たちへの時間で忙しいんだ。
何かと「うるさい」世の中だが、その声のほとんどは自分の人生に影響はない、と思えば気持ちが少しは楽になるかもしれない。
さっきもすれ違った自転車乗りにボソッと何かを言われたが、あの自転車乗りには二度と会わないだろうし、会ったとしても相手にしなきゃいけない理由はない。
そして、「僕が死んでも悲しくないのなら、とりあえず黙っててくれないか。」と言えるだけの精神力は持っていたい。
僕の葬式で泣いてくれる人たちのことを考えて生きる方がよっぽど幸せだ。