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団地の子

父と私は団地に住んでいた。

世帯にもよるが他では考えられない家賃の安さが魅力
生活困窮者はこぞって時期を待ち倍率を争い応募する。抽選とは名前だけ、殆ど最初から決まったようなもので自立出来ず住居を与えなければ路頭に迷う順になっている。

部落差別とまではいかないが、団地の子差別は確かにあったと思う。家庭に訳ありですとレッテルが貼られているようなものだ。

公園で顔を合わせた子に声を掛ける

「おともだちになろう」
友達になるのは得意だった。

「お母さんが、もうあそんじゃだめって」
友達でなくなるのも慣れていた。

何故なのかは分からなかったし、それに悲しいと思ったこともなかった。
ただ、そういうものなのだと落とし込んだ。

だから少し離れた公園に行っては新しく友達を作った
「また明日もあそべる?」
当時は連絡ツールがなかったから完全に口約束だった

普通の家庭の子には門限があった
帰ってしまうと私がひとりになってしまう
何とか話を逸らし、繰り返し引き止めた
意地悪なことも言ったと思う。

帰ってしまった後、きっとコテンパンに叱られただろう
二度と約束の時間に会うことはなくなった
それも、そういうものなのだと落とし込んだ。

門限に帰らないと、家族が心配して探しにくる
明かりがついた家で、家族が帰りを待っている
お夕飯が、温かいお風呂が、綺麗に洗われた寝具が。

それが普通で、私が何ひとつ持っていないものだった

小学校が終わり学童に行く子達が羨ましかった
皆んなで宿題をして、オヤツを食べて…
アレもお金がいるのだと聞いた

首から裸のカギを下げ、誰もいない家に帰る

帰りにいつも寄り道するコースは決めていた。
通学路なんて行きも帰りも守ったことがない
わたしが勝手に“ねこみち”と名付けていたそこは、片道ギリギリ車が通るかどうかくらいの細い道に野良猫が繁殖していた。

給食のパンをコッソリ少しだけ持ち帰り猫に食わせるのが好きだった。

みんな下校しきって辺りが薄暗くなってから仕方なく家に帰る。
帰って別にすることも無いのでテレビを見ていた気がする。宿題は開いたことがない。

腹が減ったが何も無いので諦めて眠る
そうすると深夜、鍵の開く音がして焼酎臭くなった父が帰る
酔った父は、猫撫で声で名前を呼んで抱きついたり同じ布団で寝ようとするから嫌いだった

酒に溺れないと感情が出せなかったのだろう
いまだから、少しだけ分かる

これが私の日常だった

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