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刑務所・⬛︎⬛︎・病

何やら不穏な雰囲気漂うタイトルなのだが、これは俺の行動を羅列しただけなので心配無用。

刑務所

日時は7月31日の10時丁度、7月ももう早いもので終わりを迎える、そんな時期で俺はある所へ足を運んだ。それがタイトルにもある通り刑務所である。刑務所と言っても俺が罪を犯したという訳ではなく純粋な好奇心で刑務所の外観を眺めてみようと思い立ったので行くことにした。その動機となったのは、Youtubeに投稿されてるこの動画だった。

何でこれを見るに至ったか、記憶が正しければツイッターで無期懲役という言葉を見かけて正しい意味を調べるか〜と思い、検索していたら樹形図式に刑務所に辿り着いたといった感じである。俺は現段階では性犯罪を起こす気はないし、性に限らず如何なる犯罪も起こしはしないはず。となると、俺は人生で刑務所といった自ら赴くことのない場所をこうした電子媒体を介して消費するだけで終わるのだろうか?という疑問が思い浮かび、そんなの釈然としないし実際に見た方が断然良いに決まってるだろということで半ば衝動的に刑務所を眺めることが決定した。他にも、理由はあるのだがここでは割愛。多分別の機会に書くと思う。

そうして、昼夜完全逆転している俺は、朝5時頃にこの動画を見て、9時30分に風呂で老廃物を流し、9時50分位に家を出発。

実に8日ぶりに外へ出る俺にとってこの日の天気はクソ最悪だった。熱すぎる日光、耳を劈くような蝉の鳴き声、植林を徘徊する不気味な蜂、歩くのが遅いのに歩道の真ん中を頑なに譲らない女、すれ違う時、明らかに道幅が狭いのに肩を引こうとしない男など、「外ってこんな終わってたか」と問い掛けたくなる位に地獄の様相を呈していた。お前ら、休日だからって浮かれているな。

そして、俺はいつも使ってる路線である程度の所まで行ったら、そこから市営地下鉄に乗り換えた。いつも使わない地下鉄は旧と夏を打ち消そうと奮闘している空調が合わさった懐かしいけど何処か寂寥感漂うにおいで満たされていた。それを堪能しつつ、最寄駅へ着くのを待った。

刑務所の最寄駅だからこういうのもあるんだなあ、と思ってつい写真を撮ってしまった。(刑務所もまあそうなのだが、近くに警察署があると貼ってあったりするのかもしれない)

珍しい所で言えば、居酒屋の便所でも見かけたことがある。居酒屋の便所に貼っては落書きされないものかハラハラするのだが。

いつからあるんだっていうポスター(他意はない)

そして地下鉄なので優しい(優しいも何もないが)機会音声に誘導されて無事に地上へ、そしてこの知らない駅で知らない地上に出た瞬間、これが面白い。

見たことなさすぎる景色

見たことがなさすぎる。イトーヨーカドーの食べ物専門みたいな建物とか、学校に併設されてるグラウンドなのか、それともただのグラウンドなのか分からない施設、果ては歩いたことのない、初めて歩く路地。面白すぎてマスクの中で俺は笑みを浮かべていた。そうなんだよな、東京なんかはこれに“憧れ”という感情が付随してワクワクを増長させたりするのだが、こういう地元でのワクワクはその東京とはまた違って素朴な中にキラリと光るものがあって、それを両手で丁寧に掬って愛でるみたいな、そういう綺麗なものがあると俺は思ってる。俺はそれをこの20代で掴み続けたい、見つけまくりたいという気持ちがある。これは焦燥にも似た、でも怠惰な俺を突き動かすための素晴らしい原動力となっている。

話を戻そう。そう、この踏み入れたことのない地はやっぱり興味深い。この街に住んでる人はいつもと変わらない景色(人によっては退屈な)なのだが、今日初めてきた俺にとっては知らない街、そしてワクワクをくれる街、そんな街に俺は刑務所を見に来た。上手く言い表せないが、何だか齟齬みたいだ。

暫く歩くと、案内板のようなものがあってでかい刑務所を取り巻くように拘置所、少年鑑別所、その職員の宿舎なんかが建てられていた。最初はその宿舎が刑務所なのかと思って、こんな剥き出しでいいのかと恐々としたが、それが宿舎だと分かった時、自分の無知と幼心に少しばかりの恥ずかしさを覚えた。

そしてようやく、目当ての刑務所が姿を現した。敷地内は写真撮影禁止だったので画像はない。やはり高い塀で囲まれている。一箇所に、その塀をこえる高さの緑色のネットのようなものがあり、それは先述したグラウンドに置かれてるようなネットだと判断して、あそこが運動場として機能しているのかななんて思惟したりしていた。グルッと一周回ったのだが、やっぱりどこも塀があり、中身を拝見することは叶わなかった。

グルグルと歩いていたら偶に人とすれ違うことがあった。君たちも興味あるんかいなと思っていたがどうやら違うようだった。彼、彼女らの多くが動きやすい服装を纏って、ちょっと足早に通り過ぎ去っていくのだった。刑務所には目もくれず、その目は遥か彼方、信号とか山とか青空とか境界線ではなく、もっと崇高な形而上学的なものを見据えていたように感じた。泥を洗い流す時の水だった。他にも学校帰りであろう学生もここを通学路として認識するのを当たり前かのように歩いていて、刑務所には一瞥もせずそのまま通り過ぎてて、この中でこんなに思い馳せてるのは俺だけかと、その瞬時、自分の滑稽さというか阿呆加減に心の中で苦笑した。でも、それがまあまあ心地よかった気がする。その時だけ、現在、死、老い、将来、未来、過去の柵から抜け出せて爽快だった。

そう、それとここには刑務所内で作成された作業製品を展示している場があって、それを見に行こうと歩いて行ったが、7月31日は日曜日。この展示場は土日祝日は閉じていた。と言うのを帰宅した後、母に溢したら「当たり前だろ」と返されてしまった。博物館とか美術館も土日祝日は休みなのだろうか、今度また衝動に駆られたら行ってみよう。開いてたら「開いてた」と言おう。開いてなかったら、頭抱えて毛布とベッドの隙間に体を挟み込めばいいし、サイトは絶対見ない。勿体ないだろうか?

刑務所を見れたのは俺にとって良かったのか、良くなかったのかは分からないが少なくとも久々に外に出向く良いきっかけにはなった。胸の高揚感みたいなのも久方ぶりに覚えたし、何より少し楽になった。刑務所見て楽になるって最悪なのだがそういう直接的な意味合いじゃなくて、言わなくても分かりますよね。何となく。そんな感じだった。

⬛︎⬛︎

真夏の日光を受けて温度を高めている自室、エアコンをガンガンかけても冷めやらぬ熱気は俺の肌に纏わり付き、構って欲しそうに背中にベッタリとくっついてきた。冷めやらぬは普通、興奮とかに使用すると思うのだが、こうバカみたいに熱いとそんなことは瑣末な問題に感じられてくる。日時は、刑務所を眺めていた時から遡り、7月31日の6、7時とかだったろうか。その時の話になる。

スマホでツイッターを眺めていた。ツイッターは色々な情報が激しく流れている。その奔流に身を委ねていると、たまに性の絵が枯れ木に引っかかってて、俺の目を釘付けにすることがある。そして下腹部に一定の刺激を無条件で貰ってしまう。そうなると思考が単純往復運動の一点に絞られて、他の今まで考えていた行動、選択肢が頭の中から一切除外されてしまう。そうしてタガの外れた俺は世界最大の検索エンジンの川へと目標を変えすぐさま飛び込む。暑い夏は水遊びに限る。

流石は人の3代欲求と言ったところか、一度燃え盛った家を鎮火するのが難しいように一度悶々とした気持ちを抱えた人間は、それを処理し終えるまで止まらない。俺が今回、消化活動の支援を頼んだのは、タイトルにもある通りの人だった。

普段なら己が持つ性癖を打ち込んで適当に済ますのだが、今回は違った。その時だけ彼女が凄い愛おしかった。(何故かは分からない)

一つ心当たりがあるとすれば、それはザイオンス効果(単純接触効果の方が知名度的にはあるかもしれない)が挙げられる。繰り返し見たり、触れたりすると好感度が上がっていくというものなのだが、これが一番この感情の振れ幅に近い気がする。特に最近はにじさんじ甲子園という大きなイベントがあってそこで彼女の配信を観る機会が増えたので何ら不思議ではない。

恋は盲目、誰が最初に言い出したのかは存じ上げないがかなり筋の通ってる言葉だなと思う。この一時の劣情を恋と呼ぶには少々早計かと思われるが人は盲目になると自分とその盲目の対象となる存在以外が視界に入らない。そうなると、羞恥心の霧散やら目的へ向かって動こうとする意欲が高まる。それによって起こされる行動が如何なるものであろうと。

この唾棄すべき感情に突き動かされ、俺はまずノートパソコンに向かって⬛︎⬛︎を掲げた。その先端にはタイトルとはまた別の女の人がいた。彼女はゲーム配信の最中である。⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎をいきなり向けられたら動揺を隠せないだろう。しかし彼女は違った。

ノーリアクション

清々しいまでのノーリアクションであった。突き出された⬛︎を嘲笑うかのように彼女はケタケタと笑いながら尚もゲームにご執心の様子だった。だが、今の俺にとってはこれが心地良かった。パソコンに⬛︎⬛︎を差し出す成人男性とそれを認知すらせずにただ自分の好きなゲームに没頭する女の子という捻れの位置にあって非常に奇妙な構図が俺のツボをとらえたのであった。俺は自室で時間帯も気にせず笑った。笑い続けた。一頻り笑った後、この高揚した最高の状態で俺は件の女と逢うことにした。

詳細は省くが、やはりセーフサーチの停止した電網には彼女の⬛︎⬛︎が野晒しになっていた。もうどれをとっても一級品で普段の佇まいとは真逆の姿(創作なのは知っている)に俺は猛烈なリビドーを内に感じた。

その内、俺は⬛︎⬛︎に稲妻を巡らす、その契機となった彼女と共に⬛︎てる運びとなった。それは、宛ら原始時代の火起こしを彷彿とさせる情熱的で刹那的な時間だった。

一通り事を済ました後にカーテンの隙間から覗く朝空をチラと見上げた。朝の澄んだ空気と夏の蒸気を含んだその空は外へ出るのも憚る程にギラギラしていた。どこか自分の在り方を叱咤されているようにも思えたがそれよりもこの空という雄大さに心を抱かれたから気持ちは落ち着いて、安心感を受け取ることが出来た。

追記:パソコンは純潔を保っています

一部の表現を隠しています

前項の文章を書いて、余りの低俗さに辟易としどうにかこの項を無かったことに出来ないかと考えては修正、削除するのも面倒臭くなり長いことこのnoteを放置していたので、この項はかなり薄く書くこととなった。

前のnoteでも書いた通り、最近は読書にハマっている。人は孤独になると読書を好むようになると何処かで聞いたことがある。現に友達は少なく、将来の見通しも全く無いのでそれに近い状態にある。なので、本を現実逃避の道具として用いるのは至極当然のように思える。

そして、ここでは俺の読んだ本の感想をササッと書いておしまいにする。

俺が読んだ本は、我孫子武丸著の殺戮にいたる病である。本にはグルッと表紙とはまた別にカバーがされており、そこには“これを読まずして、ミステリーを語るなかれ”のような文言が書かれていた。そんな大層な物言いをされては此方も「ではね、買いますよ」と、販売戦略にドップリと嵌ることになるに決まっている。(まあ俺はミステリーを語れる程読んでないので、単純な好奇心で買ったのだが)

陰鬱で凄惨な描写のある小説を好んで読む傾向にある。それはきっと、変わり映えしない日常に嫌気がさして…というありきたりな理由からせめて本の世界だけはぶっ壊さなきゃやっていられないという考えが根底にあるのだと思う。

この文章からも読み取れるように、この殺戮にいたる病はそういう本だった。かなり好きな部類だった。今まで読んできた小説の中で一番大好きだ。まずとことん気持ち悪いのがかなり良い。倫理に反するような表現が所狭しと入れられており、これが弁当ならまずご飯はない。ご飯は対極に位置するから。それにご飯がない、それだけで何か不安を煽られる感じがする。非日常は日常に揺らぎを与えてくれる。その揺らぎはさながら電車の不規則な揺れのように我々を安心、気持ちよさを提供してくれる。それが殺戮にいたる病という小説だった。

少々、ネタバレになるのだが特に主人公が胸部に固執し、様々の事を行う所は快感だった。まず普通に生きててしないことを(本の中とは言え)平然とさも、それが当たり前かのように実行しているのを本を介して触れられたのはかなり嬉しい。これがノンフィクションとかなら、もう⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎だった。⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎を経験していないので分からないが多分そうだろう。皆、夜はこういう内なる獣を解放して無機質な建物の中へ素早い動きで入っているに違いない。紙で獣になれるという点で俺はかなりコスパがいいなと思った。そういう点では、この小説は獣のコスパを考えさせられるバイブルとしても扱うことが出来る。獣のコスパを考えて良いわけがない。

俺は皆さんにもこの小説を読んで欲しいので内容について全然触れなかった。それ程、この小説は自分で見て感じて欲しいものだから。実際、俺は評判をちょっと齧って読んだのだが、それでもめちゃくちゃ面白かったし、小説の根幹を知っていても楽しめたので全くの無知の状態で読んだら脳みそをくすぐられる感覚を知れるんじゃないかと睨んでいる。

本当に大学4年生になってから色んなことを考えるようになった。特に死、死に対して異常な恐怖を覚えるようになった。始まりがあったら終わりがあって出会いがあったら別れがあって、そういうのがやっと分かってきた。みなさんはいつ知ったのか?それが気になる。そして死を前提として生きているのが凄すぎる。昼間はそこまでではないのだが、夜は凄い。死後を肯定する宗派にいくら縋っても死の色は褪せることなく、タトゥーのように俺の身体にベッタリと付いて剥がれない。夜の恐怖を思い出せない。夜になったらまた来るのだろうね。




















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