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つないでいく人になる。接続しない時をもつ。

予期せぬ夏休み

今月は人と会い、コロナに倒れ、また人と話し、としていたら終わっていた。お盆休みと合わせて17連休。かつてない夏休みの日々だった。

コロナにかかった時はショックだった。直前までいろんな人に会っていたから。濃厚接触カウントにもなる人だってちらほらいたはずだ。
でも皆さん「別にコロナになってもとやかく言わないよ」と言ってくださった。あと本当にコロナになった報告がなくって、よかった。僕はつくづく運がいい。

感染タイミングも運が良かった。
もし少し手前になっていたら、たくさんのお話を聞きそびれた。
もし9月になったら、エデン横浜の皆さんにご迷惑をおかけしたかもしれない。
もちろん療養期間の10日間はなかなかしんどいので、かからないに越したことはないのだけど。それでも「今は体力の温存しどきだ」と受け取った。確かに、こんなことがないとじっくり布団の上で寝転がり続けることもできなかっただろう。
だから、僕は感染するなら今しかなかった。本当に運がいい。

僕は大して重症化もせず’(といっても熱は38℃出たし一生咳してるし、数時間だけ呼吸が苦しくなって怖くなったこともあったけど)、ただ家から出れない暇な日も何日かあった。
そんな時に友達から「クリフトンストレングス読んでよ」と言われ、久々に読み込みしながらおしゃべりをした。

クリフトンストレングスと僕

クリフトンストレングスとはもう9年の付き合いになる。大学時代、サークルも引退し自分が何者かよくわからなくなった時に、なんとなく見かけて取得した。
それ以来なんとなく「僕は人に教えたり、その場その場でものを直すのが好きなんだな、それっぽいな」と思うぐらいで、特に活用せず5年が経った。
ある日、人生の目標とやらを立てろと会社から言われ、全く思い浮かばずほとほと困り果てた際に思い出し、プロに資質を読み込んでもらった。その際に「資質の読み込みは僕の体に合う」と思い、そこからプロに師事したりしなかったりしながら深く学ぶことになる。

プロコーチ資格はお金がないからと取らないでいるので、野良のアマチュアなのだけど、プロの方にお話を聞いたり、実際に読み込みあいをしながら、それなりに読める自負がついている。だからたまに、頼まれた時に読み込んでいる。

僕の知識とレンズで、友達が少し楽になったり、自分にあったやり方ってやつを見つけてくれるのは嬉しいし、楽しい。しかし同時に、長らく続けているとしんどいなあと思うことがあった。
相手の可能性を潰してはならない、自己否定につながるような読み方をしてはならない。そんなことに気を張っていると「ただ楽しんで思ったことを言ってはいけないのではないか」というふうに感じて、呼吸が苦しくなる気がした。

だけど今回は素直に楽しめた。もちろん、なるべく間違ったことは言わないように、なるべく相手を追い詰めないように気を使ってないわけではないのだけど。なにかが楽だった。

一つ変わったことがあるとするならば、アースする感覚を身に着けたことだろう。

先月書いたこれは有料にしちゃったので、改めてまとめる。
僕はエネルギーとか注意とか関心とかを一点に集中させてしまう癖がある。シンプルに注意不足でものなくしたりするという欠点もあるが、同時に人間に関心が向くと距離感がわからなくなるという問題もある。
誤解を恐れず端的に言えば恋に落ちるのだ。そして厄介なことに、この恋は苦しいばかりで楽しいものにはならない。人に注意を一点集中させるということは、その人のことをすべて知りたいし、知っているような気さえしてしまうということだ。自分の感覚と相手の感覚を繋ぎ合わせようとすることだ。それは現実的ではなく、できてない現実とのギャップに苦しむことになる。

以前「境界性パーソナリティ障害」を軸に考えていたのとおそらく同じ話である。

そんな折に、「ひと」ではなく「こと」に向ける、特に変化しようがないものに向けると楽になることに気づいた。自分のエネルギーが他の人を傷つけない形で発散できるからだ。
僕はこれを「アースする」と表現している。

読み込みについても、アースする感覚をつかんだ気がする。
今回は読み込みの際は、僕が「資質の振る舞いや扱いについて気づく」ことに注力してみた。すると、僕は解釈ズレがあった時に素直に受け止められたし、「こうあるべき」という押し付けをせず、「こういう側面はないか?」という問い掛けに変えられた、気がする。まだうまく出来ていないかもしれない。
でも少なくともコストを抑えられたし、苦しみを抱えてしまった人も特にいないし、多分練習できる。うまくなれる。

今後も人のことを知り、話す機会は増えるだろう。折を見て練習していきたい。

接続しないでいること

コロナで10日間、人と会わないでいる期間があった。昨年、山籠りと温泉のために小田原に引っ越したので、周囲に仲のいい人はいない。少なくともオフライン上では僕は孤独な戦いを強いられた。

twitterを眺め、radikoでエフヨコを流し、紅茶を淹れ、たまに眠れず一日を棒に振りながら過ごす日々を送った。
僕は一人のほうが好きな人類だと自負していたのだが、これはさすがに堪えた。刺激がとにかくなく、なにか自分が存在していないような感覚を覚える。注意の向け先がどこにもなかった。そもそも注意を向ける元気もなかったのだけど。twitterのいいねが増えると、なにか存在が認められて、ちょっと救われた気がした。

この感覚について深掘りすると、よくある「承認欲求」と「マインドフルネスはいいぞ」という結論に落ち着くのだけど、今回特筆したいのは「人避けをしたい」という感覚は有限であるし、同時に「人に会いたい」と思う感覚も有限であるということに気づいたという話だ。

2021年11月の連休に引っ越してから早9ヶ月が経過している。当時の僕は、他人の期待、あるいは「他人に期待されていると思っていた僕自身」に疲れ果てていて、他人を避けることに躍起になっていた。温泉にいっても周りの人が気になり、静かな所を探してうろちょろしている始末だった。

けれど、自分一人で箱根路にママチャリを走らせ、温泉にひたり、おでんをつまむ日々を送っているうちに、人に会いたくなった。謎のイベントを主催したりするようになった。そこからまた気づきと元気を得て、もうひと頑張りしたりのんびりしたりした。

つまりは、今人と会っていて疲れるということは、ただ疲れているだけであり、なんか深刻に捉えなければいけない話なわけでもないし。今寂しいのも、単純に最近人と会ってないというだけであり、人と会えば解決するのだ。別に僕らに宿命付けられたなんかではないし、いつまでも続くものではない。空腹感みたいなものだ。

だから、疲れたときに休めるように、自分をコントロールしやすい環境にいるのが大事だというだけだ。そのためにも、人のことを視界に入れず、twitterを閉じた時間をしっかり取る。代わりに、だんだんとお腹がすいていく感覚を受け入れて、味わっていく。もうちょっとお腹が空いたら、きっと白飯だってもっと美味しく食べれるから。

つなぐ人になること

かなり脱線したが、そんなわけでコロナのせいでめちゃくちゃお腹が空いた僕は、人の資質をおいしく頂いていた。読み込んだ相手も自己理解が進んでよかったらしい。

うまくいった時、風穴が空いたような感覚がある。それは問題の突破口であったりもするし、なにか意識のこわばりが抜ける、呪いが解けるようなものでもある。そういうのを味わうために生きているって感じがする。

けれど、問題やら呪いやらというものは、2つとして同じものはない。同じようなことに悩んでいるように見えても、同じ人生を歩んでいるわけではないのだから、微妙に考え方は違う。だから、自分一人の人生では引き出しが足りないな、と感じることがある。

クリフトンストレングスに頼っているのは、他人の引き出しを脳内で合成する所にある。適当に資質を10個ならべれば、その人が言いそうなことがだいたいわかるから、それを言うと解呪したり、そこまでいかなくても反応を引き出して理解が深まったりする。

でもこれは、それこそ人と人を引き合わせればそれで済む話だ。だから、いろんな人と会って、会わせて、繋いでいくことも覚えたい。あるいは、僕自身のクリフトンストレングスの知識を使って、繋がるきっかけ、あるいは繋がった時の感覚をあげられたらいいと思う。

「一人になってもいいんだよ。一人でいたくなくなったら、いつでもここにいるから、遠慮なく一人でいていいんだよ。つなぎたい時につなぐよ」

って言いたいんだと思う。ずっと、「いつでもつながっていなければならない」と思いこんでいたから。

仕事でも、読書しててヨイバーでも、エデン横浜でも。少しずつ形にできるといいな。

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