見出し画像

人には重なり合わせがある ~境界性パーソナリティ障害について知って気づいたこと

はじめに

ちょっと世間話をしただけなのに、その人のことしか考えられなくなる夜を迎えてしまう。
あるいは、誰にも話していない話を、「その人なら受け入れてくれるのではないか」という幻覚を拭えない日々に突入してしまう。
あるいは、恋をしていたと思っていたら、全身が痒くなり、夜も眠りが浅くなり、気がついたらぐったりしている。
あるいは、出会いを求めて接近したはずなのに、アプローチをかけられたら何故か苦しくなって逃げてしまう。

ビジネスはいい。金銭と契約の世界で、契約を結び、利得があるかぎり味方同士だ。けれど、ビジネスの外側で、人間を信じるのが、苦しい。
わかりやすい利得があって、わかりやすいやり取りがあって、初めて安心できる。そうでないと自分がどうなってしまうかわからない。

そんな気持ちを抱えてた自分が、「境界性パーソナリティ障害」という概念を知って、少し説明がついたよ、という話です。

境界性パーソナリティ障害とは?

一言でいうと、自他境界が曖昧になっていて色々と困りごとが起きている、というものです。
自他境界というのは、「自分と他人は違うものだよ」という認知です。成長にともなって少しづつ確立するものらしいのですが、曖昧なまま大人になる人も結構いるらしいです。

自他境界があいまいになると

  • めまぐるしく気分が変わる

  • 自分の気持ちが他人の一挙手一投足に大きく影響を受ける

  • 出会った相手のことを「完璧である」と思いこんでしまう(自分の理想を他者に投影している)

  • 全然話したことのない相手のことが全部わかった気になってしまう(他者のパーソナリティに対する認識を自己のパーソナリティに対する認識で上書きしている)

  • 少し相手が思う通りに動かないと、急に裏切られたような気持ちになってしまい、苦しくなる

  • 自分が何者であるかわからなくなる

といったことが発生するようです。
僕は境界性パーソナリティ障害と診断を受けたわけではないのですが、わかりみが深いので、僕の症状のことを「境界性っぽいなんか」と呼称します。

僕の「境界性っぽいなんか」みとは?

自分を捨てたがる

基本的に「自分という存在」に対して忌避感というか、虚無感を感じていました。「自分自身なんて何もないし、いらない」「結局の所、わかりっこないんだから、表面が取り繕えていればいい」などと考えがちでした。

頼まれごとしかできない、頼まれごとは全部やってしまう

「自分のためにやる」が大の苦手でした。仕事中や人と会っているときはハツラツとしていることが多いですが、それが終わると動けなくなります。
前職でブラック一歩手前勤務をしていましたが、仕事で全力注ぎすぎて家事とか本当にできませんでした。

まねっこ・なりきりをしたがる

他のものになりきっていると「自分である」ことを忘れられるので気晴らしとなっていました。
「家事ができない」を「昔の彼女(家事が割とできる)のまねっこをする」ことで克服するなどしているので、これは決して悪いことではないと思うのですが、「自分ではない」状態でやるので身になりません。
また、まねっこはまねっこなので、当然まね元のようにはうまくいきません。

すぐ他人のことを「完全に理解した」気になってしまう

この挙動には2つの心理があります。まず、自分と他者の区別がついていないので、他者に自分の問題を投影してしまいます。そりゃあ、わかりますよ、あんだけ嫌っている自分自身のことなんですから。
そしてもう一つ、自分が基本的に嫌いなので、「かっこいい存在」になりたがります。その上で僕にとってわかりやすいのは「困っている人を助け、教え導く存在」でした。なので、「あなたのことを理解しているよ、導いてあげるよ」というメッセージを発したがるわけです。
この時、僕の中では「相手が声に出していない言葉」が聞こえているように錯覚してしまっています。

僕の心で何が起きていたのか

心的世界の登場人物は誰か

この心の動きを振り返ると、他人とのかかわり合いにまつわる話であるにもかかわらず、他人からのアプローチを受けていません。しかし同時に他人が全く関わらない時には心が動いていない、ないし「すでに疲れているため動けない」という状態になっています。

この心的世界に「他人」という概念は存在せず、代わりに「他人の皮をかぶった自分」がいて、そいつが声をかけているのです。
この「他人の皮をかぶった自分」を専門用語で内的自我といい、「他人の皮をかぶる」ことを投影というようです。

投影で何が起きるか

投影をしてしまうと、現実の相手や思い出の中の相手が、「自分自身から発せられた何か」に取って代わられてしまうので、実際に言われたこと、してもらったことが一切自分に届かない状態になります。たいへん。

だから(もうちょっと細かい理屈はあるんですが)愛が足りなくて不安だと、「自分の欲求に答えてくれる相手」を求めて試し行動をしたり、いくら諌められても自分の思った方向に突っ走ってやべーやつになってしまったりします。そして相手を傷つけてしまう。

相手を傷つけてしまうのは本意ではありません。であるならば、もはや自分で取れる行動は「自分を触れるもの皆傷つけるナイフ」だと見立てて全力で距離を取るしかない。そんな風に考えてしまうのです。

投影をやめられないわけ

じゃあ「皮をかぶった自分」じゃなくて相手を見りゃいいじゃん、という話なのですが、区別がついていないものを区別するのは大変なことです。
例えば、青りんごと梨を見分けるのは、なかなか厄介な問題です。ひと目見ただけではわかりません。青りんごだー、と思って食べてみたら味が全然違くて、それで初めて「梨」というものに気づきます。

ですが、梨は食べれても他人の心を食べるのは難しい。そもそもお出しされることが少ないですし、お出しされたとしても目を離した瞬間に「自分の心」にすり替わっているのですから。

逆に言えば、「相手が簡単にお出しできて」「こちらは簡単にすり替えられない」心があるならば、それは投影をやめるきっかけになるはずです。

投影に気づくためにやれたこと

投影はなかなかやめられない、と話しましたが、今の僕はそれが少し落ち着いていて、「これは投影である」とすぐ気づけるようになっています。それには何個かのきっかけがありました。

味比べは投影しようがない

ここ2ヶ月ほど、カウンセリングついでに代々木上原のムレスナティーに通っています。似たような味で全然フレーバーの違う紅茶がたくさんあって、毎回発見があります。

この紅茶は全部同程度の美味しさを保っているはずなのですが、「このフレーバーはおいしい」「このフレーバーは口に合わない」というのがはっきりとあります。つまり、「僕とははっきりと異なる味覚がある」ことがいえます。

ある紅茶をおいしいと感じた時、存在する事実は「おいしい紅茶がある」ではなく、あくまで「僕はこの紅茶をおいしいと感じた」です。このように感覚に対して「誰が感じたか」をはっきりと認識する、ないしさせることを有標化されたミラーリングと言います。

「僕がおいしいと感じた」と「他の人がおいしくないと感じた」ことは同時に発生します。このことが他人と自分の区別をつけるきっかけになったように思います。

「ひと」ではなく「こと」に関心を向ける

最近某読書サークルで、「近場で読書会やっとらんやん」と思い、読書会のようなものを開いています。「ようなもの」と言っているのは、結局本読まない人(僕とか)は全然本読まずにだべっているだけだからです。騒がしい中でも黙々と読書を進めている人もいます。

始める前は、タイムキープとか、読書会として成立させるにはどうしたら、とか、テーマ本とか、なんかうだうだ考えてたんですけど、なんかもうなんも面倒くさくなっちゃったので、この有様です。そして僕は、この状態を「まあ他の人が不快でなければいいんじゃないか」と思っています。

「騒がしい環境の方が本を読める人」もいるし、「今話していることに興味がないから別の所で本を読んでいる人」もいます。そしてその人達は別に「騒がしい」ことや「興味がない話をしている」こと自体には不快を感じていません。これも感覚の違いです。

また、同じ本を読んだとしても、読み解き方は異なります。バックグラウンドにある知識・経験から、しっくりこないこともあれば、情景が鮮やかに思い浮かべてしまって息ができないことだってあります。それらのリアクションも全て、有標化されたミラーリングです。

人はみな、重なり合わせの上に立っている

思い返せば、味比べにしても、「おいしい」と感じるのにはバックグラウンドが必ずあります。例えば僕はバナナやメロンのフレーバーティーはあまり好きになれないのですが、これはあまり美味しいメロンを食べたことがないし、バナナもそんなに好きじゃないからだといえます。
虫が怖いと感じる時、それは虫によって痛い思いをしたのかもしれないし、犬が苦手な人は噛まれたことがあるのかもしれません。
人間の思考には必ずバックグラウンドとなる経験・知識があります。そしてそれは多岐にわたるため、部分的に共有可能であり、かつ完全には共有不可能です。

自他境界があいまいになっているとき、このことを忘れてしまいがちです。「○○をわかってくれたから好き」とか、「自分は△△でなければならない」とか、「自分は☓☓だからだめだ」とか考えている時、他の重なり合わせのことを見落としています。「○○しかない」と錯覚しているから、それを持っているものをすべて欲しがってしまうのです。

一個☓がついたところで、自分にも他人にも他の重なり合わせがあるのだと、そう思えてから、投影していた誰かが、自分の声で喋るようになりました。よかったなと思います。

おまけ:読んだ本

kindle unlimitedで無料なのでおすすめです。しかし付録のスクリーニングやると心が折れることがあるので注意してください。

1冊目の筆者が、境界性パーソナリティ障害に的を絞って書いた本です。「境界性パーソナリティ障害ははしかのようなもの」だという言葉が心の支えになりました。

これは別口で紹介された本です。治療者視点で境界性パーソナリティ障害とかを抱える人間を観察し、対応していくための本です。自分の考えをまとめあげる上で大変参考になりました。

いいなと思ったら応援しよう!