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大抵告白なんて、上手くいかなければ全員気にしてる。

通過してしまった地点の出来事に変化を起こそうとしても、変化が起きることはない。その地点にへと、タイムスリップなんかでも出来ればいいけど、そんなものはこの世に存在しない。

言わなくて良かったのに発してしまった言葉は、言わなくて良かった言葉として、そのまま残り続けていくもので。

言った言葉を後から取り消そうとしても、その前には、やっぱり言ってしまった事実がずっと残っている。それを跡形もなく消そうとしたって、跡形も消えることはないのだ。刻むようにリアルへ残してしまった産物に、人はそうして取り返しのつかなくなった状態だと悔やんだり、後悔として捉えるようになってしまっていたりする。

そうした気持ちから、自分の思考はどんどんその気持ちへと引き摺り込まれるように展開してしまうが。どれだけ思考を繰り返し、展開して、その悔やみや後悔について咀嚼したとしても、苦味が増して人生が詰んでしまったような気分が増しそうになるだけで。それは本来不必要だった程に、抱える必要もなかったくらいの膨大な自己批判に変わっていくよう。

でも、そうやって自己険悪に陥ってしまっている自分を他人が見たとき、本人が感じているほどの気持ちに、他人は共感の理解が及ばないのだろう。ひょっとすれば他人によっては、滑稽にすら感じ思ってしまわれるもので。

もうすこし視点を変えて、考えてみれば。

これだけ自分の行いに反省をしてしまう生き物なのだから、他人だって同じように、自分の行った間違いにしか興味がなく、それについてしか考えたりしないのだから。

皆んな自分の行いを気にしているばかりで、きっと他人の些細な過ちについては常々考えるほどの優しさを備えていないのだと思えてくる。

自分のこと、ずっと一番気にしているのは自分だけ。他人はそれ程考えてくれないものだということに気がついたら。なんだか自分が考えている自分のことについてなんか、終止符を打つように、考え方を切り替えてしまう方が、よっぽど良いようにさえ思えてくる。

人間の思考は止めようとしても、止められるものではないだろうが、どうしようもないことについては「どうでもいいか」と切り捨てることも大事で。自分の思考の向かう先の舵きりくらいは無理矢理にでも何とかできた方がいい。

自分の精神を不安定から、安心にさせようとすると。それほど深刻に自分についてや、それに関連する失敗談などに真面目に向き合ったり、考え続けない方がいいように思う。

そうやって生きていた方が、肩の荷が降りるような気がする。そうした方が、もっと冷静に物事が見抜けてしまえると思えている。

***

「俺たち付き合おうよ」って、隣に居る彼が言っていた。それを聞いた私は、彼の中にある欲張りな感情があることが垣間見れた。

前々から、私達はこうなるだろうと予想していたが、私自身から彼に元々興味があった訳ではない。だから時間をかけて、付き合おうという気持ちに自分がなるものなのだろうか、と自分を試すようにして今まで付き合って来ていたが。この段階で告白された私の答えとしては「ありがとう」と「ごめんね」という二言の答えだった。

ふと私は否定的な言い方をしてしまったかな、と思いながら。彼は別に気にしていない様子をしていたから、その後は私自身が別に気にしないようにしていた。

人生が自分の思い通りににでもなれば、幸せだ。何の過ちも犯さず、自分の理想だけが常に叶え続けられたら、幸せなものだ。

でも、幸せなのは思い通りになった人なだけのような気がする。彼の思い通りの人生が送れなかった理由の中の一つには、私という存在が居た為なのだから。

それは私が、彼からほんの少しのエゴを感じたことと同じで。私にだって多少なりともエゴがあって。同じ人として、エゴがあったのは当然で、大きさは違うものだけど。

彼が自分の思い通りにできなかった理由の中には。私の思い通りにしたい人生の中に、彼を必要とする答えがなかっただけで。きっと、私の中になんのエゴさえもなければ、彼は彼の意思だけを貫いて、私を思い通りにでも出来てしまえていたのだろう。

お互いに同じ意見であったなら、それで幸せだった。でもお互いが違った意見を持つのなら、どちらかの意見は必ず通らないものだ。

私は、彼の告白を承諾したところで幸せになれそうに思えなかった。

通らなかった相手の意見について、私は後悔したりしないけど。自分が言った言葉には少し後悔しそうになる、でも、それを考えたって仕方がないって思ってる。

「好きになれたら良かった。」

彼の中に、言わなければ良かったの言葉を作ったのは紛れもなく私だったのだろうから。

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